2022年12月01日

『週末探偵 夏休みの探偵たち』


とっくに夏は過ぎ、初秋も過ぎ、もはや晩秋どころか場所によっては初冬だというのに、季節外れの真夏の話を載せます。
「過ぎ去った夏の日に思いを馳せて」といういい加減な言葉を掲げつつ。



『週末探偵 夏休みの探偵たち』

 世の中の探偵を、いろいろな切り口で分類してみよう。
 たとえば仕事のスタンスで分けると、@なんでもやります派と、A仕事にはこだわりがあります派になる。前者について説明の必要はないだろう。後者の探偵たちは、警察がお手上げの難事件のみを引き受けたり、普段は専門的な別の仕事に就いていて、その知見を活かして事件を解決したりする。
 あるいは探偵の属性で分類するという手もある。行く先々で事件に遭遇したり、刑事課に知り合いがいたりする、B仕事には困らない派と、その逆の、C待てど暮らせど仕事が来ねーよ、なぜなんだ派である。
 世間で名探偵と称される人物は、ほぼ例外なくAーBタイプである。その妥協を排したスタンスと恵まれた属性を武器に、着々と実績をつみ重ね、ますます名声がとどろくことになる。
 では、この小説に登場する探偵たちはどうか、というと、AーCタイプになりそうだ。
 主人公は瀧川一紀と湯野原海。どちらも二十代後半の男性だ。二人は東京郊外の静かな住宅街の一角で探偵事務所を開いている。ここまでは普通だ。だが、そこから先が少しだけ変わっている。
 彼らがPR用に制作したウェブサイトには、こんなメッセージが書いてある。
「あなたの人生に、不思議はありませんか? 我々は、不思議な依頼を求めています。もし、あなたが人生の謎を解いてみたいと思うなら、我々がお手伝いします」
 属性Cのくせに、仕事をえり好みする気が満々である。
 いうまでもなく、人生に不思議なできごとなど、そうそう起こりはしない。
 しかし世間は狭いようで意外に広く、滅多にいないはずの不思議な経験の持ち主が、たまたま二人の存在を知り、駅から徒歩二十分もかかる事務所まで、わざわざ足を運んでくれることが実際にあるのだ。
 ありがたいことだ。当然、この貴重なチャンスを逃さず、何とか契約に漕ぎつけるのが、腕の見せ所だろう。
 ところが、興味を惹かれて事務所を訪ねて行った人は、テーブルを挟んで向かい合った探偵たちから、次の言葉を聞かされることになる。
「報酬はいただきません。ただし、依頼内容が俺たちの気に入らなければ、お断りします」
 おそらく読者は、ひとつの疑問を抱かれるだろう。気に入った依頼だけを引き受けるのか。それは結構だが、お金を取らずにどうやって生活するつもりだ、と。
 ここで筆者はようやくタイトルの説明に入ることができる。『週末探偵』。そう、彼らは週末だけの探偵である。平日は会社勤めをして、その給料で暮らしている。二人が何の仕事をしているのかは、公表しない約束なので、ここには書けない。最近は副業を認める会社が増えている、というニュースを耳にされた方もおられるだろう。そういう会社に勤務しているとご理解いただきたい。
「べつに探偵がどこの会社に勤めていようが興味はないよ。私が知りたいのは、仕事をえり好みする我が儘な探偵のところに、本当に依頼に来る人がいるのかってことだ」
 その質問には、探偵の一人である瀧川一紀に答えてもらおう。では瀧川君、よろしく。
「ええ、いますよ。これまでに何度も興味深い依頼が持ち込まれて、俺と湯野原で解決しました。詳細は沢村浩輔という小説家が本にまとめているので、興味があれば読んでみてください。それより問題は……」
 瀧川が小さくため息をつく。
「面白そうな依頼が、滅多にないことなんですよ」
「だろうね。依頼がないときは何してるの?」
「いろいろです。来客用の珈琲を飲みながら湯野原と話し込むときもあるし、お互い黙々とスマホを触ってることもあるし、普段の睡眠不足を解消するために――」
「あ、寝てるんだ」質問者は少し呆れ顔だ。
「たまにですよ! ソファの座り心地がとても良いので、つい、ウトウトすることもあるだけで」
「そんなにムキにならなくても」
「なってませんよ。でも」ここで瀧川は何かを思い出したらしい。口元に笑みが浮かんだ。「ときどき予想外のできごとが舞い込んでくるので、それほど退屈はしないかな」
「たとえば、どんな?」
「そうですね。少年探偵団から挑戦状が届いたので、受けて立ったりとか」
「へえ、ちょっと面白そうだね。よかったらその話、聞かせてよ」



 開け放した窓から飛び込んでくる蝉時雨があまりにうるさかったので、不覚にも階段を上ってくる靴音に気づくのに遅れてしまった。
 デスクに頬杖をついて、ウトウトしていた瀧川一紀が、来訪者の気配に「ん?」と顔を上げると、ドアのガラス越しに子供たちと目が合った。近所に住んでいる小学五年生の哲くん、優樹くん、叶くんだ。
「やあ」と瀧川は三人に向かって手を挙げた。
 瀧川と友人の湯野原海は、住宅街の一角に置かれた古い車掌車を探偵事務所にしている。敷地には一面に芝生が敷かれ、大きな楡の木の根元に、凸型の小さな車掌車が設置されていた。
 元々はある企業のオーナーが別荘代わりに購入したもので、オーナーが長年抱えていた謎を見事に解決したお礼として、今は瀧川たちが格安の家賃で使わせてもらっている。
 閑静な住宅地だから、当然、車掌車の存在は良くも悪くも目立つ。二人は週末だけ門を開けて、探偵事務所を開設しているが、お客はたまにしか来ず、その代わりに近所の子供たちが遊びに来たりする。
 彼らも月に何度もやって来る「常連」で、もうすっかり仲良くなってしまった。瀧川たちもジュースやお菓子を事務所に常備して、子供たちの来訪を歓迎している。
 ところが、いつもならドアを開けてにぎやかに入ってくる子供たちが、なぜか今日はドアのところに立ったままだ。
「どうしたんだ、みんな?」
 来客用のソファに座って本を読んでいた湯野原――といっても、いつのまにか眠ってしまい、本のページが閉じていたが――が目を覚まして、怪訝そうに訊いた。
 瀧川が身振りで「入って来いよ」と伝えると、哲くんが小さく首を振って、折りたたんだ紙をガラス越しに掲げた。
 北浦と湯野原は顔を見合わせた。
 よく分からないまま、北浦は立ち上がってドアを開けた。
「何してんだ? 早く入れよ。アイス買ってあるぞ」
「今日は僕たち、遊びに来たんじゃないんです」哲くんがあらたまった顔で言った。
「ははあ、分かった」瀧川は悪戯っぽく微笑んだ。「宿題を手伝ってくれって言うんだろう?」
 夏休みもあと一週間で終わる。溜めてしまった宿題を、必死に片付ける時期だ。少年時代の瀧川もそうだったから分かる。
「いえ。宿題はもう終わりました」優樹くんがあっさりと言う。
「そうか」今の子供は優秀だ。「じゃあ心置きなく遊べるな」
 ところが少年たちは真面目な表情で首を振った。
「今日は瀧川さんと湯野原さんに、挑戦しに来ました」と優樹くんが言った。
「挑戦?」
「ぼくたち、少年探偵団を結成したんです」と叶くんが説明する。
「へえ」瀧川は思わず笑顔になった。微笑ましく思ったからだが、少年たちは瀧川から軽くあしらわれたと受け取ったようだ。三人は少し気負った表情になった。
「どっちが優秀な探偵なのか、勝負してください」優樹くんが言った。
「なんだか、面白そうだな」
 湯野原がソファから立ち上がって、こちらに歩いてきた。
「俺たちに挑戦するとはいい度胸だ。受けて立とうじゃないか」とにこやかに言った。「いいだろ、瀧川?」
「そりゃ、いいけどさ」瀧川は肩をすくめた。どうせ今日は暇だ。「だけど、勝負するって、どうやって?」
「問題を考えてきました」優樹くんが手に持っている紙を瀧川に差し出した。「僕たち三人で考えた問題です」
 瀧川は折りたたんだ紙片を受け取った。
「いま、ここで問題を解くのかい?」
「いいえ」と哲くんが言った。「僕たちはゴールで待ってます」
「なるほど。君たちが待っている場所を探し当てればいいんだな」湯野原が言った。
「それじゃアオバデンキに行ってください」叶くんが言った。「そこがスタートです」
「アオバデンキ? ここじゃ駄目なのか?」瀧川は訊いた。
「駄目です」と優樹くんが言った。
「オーケイ。他には?」
「手ぶらで来てください」哲くんが言った。
「手ぶらで?」湯野原が訊ねる。「何も持っちゃいけないのかい?」
「スマホとか財布はいいです」優樹くんが答えた。「でも、それ以外は駄目です」
「ふうん」探偵たちは顔を見合わせた。「この挑戦状もここに置いていくのか?」
「あ、いえ」と叶くんが訂正する。「挑戦状は持ってていいです」
「了解」と瀧川は言った。「その条件で挑戦を受けるよ」
「それじゃ」少年たちが真剣な表情で宣言した。「勝負開始です」


 子供たちが引き上げると、瀧川と湯野原は、来客用のテーブルに紙を広げて眺めた。

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 挑戦状  瀧川さんと湯野原さんへ

 この暗号をといてください。

 アオバデンキ(スタート)→S→A→MS→AS→AA→M→SA→AMS(ゴール!)

(ちゅうい)制限時間は30分です
(ヒント1)郷咲西町から出たらダメです
(ヒント2)あついから熱中しょうに注意して水分をほきゅうしてください!

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「おお、暗号問題じゃないか」湯野原が嬉しそうに呟く。
「アルファベットの意味を解いて、ゴールを目指せってわけか」
 子供たちが知恵を絞ってこの暗号を考えたのだと思うと、瀧川はじんわりと暖かい気持ちになった。
「使われているアルファベットは三種類だ」と湯野原が言った。「SとAとMだ」
「アルファベットは単独で使われているもの、2つ並んでいるもの、3つ並んでいるもの、の3通りがある」瀧川も言った。
「SもAもMも、それぞれ単独で使われている。そしてAだけはAAと重ねて使われている」
「Aには二種類の意味があるってことかな」
「アルファベットの並び順は、AMと、MAの両方があるから、必ずしもABC順で並べているわけじゃない」
「そうだな」
 きっとアルファベットの順番にも意味があるのだ。
「挑戦状を眺めて分かることは、このくらいかな」
「まずはスタート地点に行ってみるか」
 二人は立ち上がった。



 瀧川と湯野原は、事務所に鍵をかけ、車掌車にとりつけた木製のタラップを降り、一面に芝生が敷かれた庭を通り抜けて道路に出た。
 挑戦状は四つ折りにして、ボディバッグに入れてある。
 二人は肩を並べて、のんびりと坂道を下っていく。道の両側は閑静な住宅街だ。
 スタート地点に指定されているアオバデンキは、ここから少し離れたバス道沿いにある。
「でもさ」と湯野原が話しかけてきた。「なぜスタート地点が俺たちの事務所じゃなく、アオバデンキなんだろう?」
「だよな」その点は瀧川も少し不思議に思っていた。
「きっと何かの理由があって、アオバデンキから始めなければならなかったんだ」と湯野原が言った。
「なるほど」その指摘は重要かもしれない。
 事務所をスタート地点にすると、ゴールまで行き着けないのだ。
 スタートからゴールまで辿り着けるかどうかを競うゲームだから、その理由は事務所そのものではなく、その立地にあるはずだ。つまり周囲の状況だ。
 アオバデンキの周りにはあって、ここにないものは何だろう?
 瀧川は歩きながら町並みを観察した。
 交通量が少ない住宅地だから信号はない。バス停もない。アオバデンキのような店舗もない。いや、クリーニング店と小さな郵便局はあるか。
 だけど、ここにはAもSもMもないのだ。
 住宅地を五分ほど歩くとバス道に出た。照り返しの強い舗道を東へ進み、アオバデンキの前に立った。おそらく昭和の時代からここで商売をしている個人経営の電気店だ。だが店は閉まっていた。しばらく休業します、という断り書きがシャッターに貼られている。
 ということは、この店が営業しているかどうかは暗号の解読とは無関係だ。
「まずは、最初のSが何を意味するのか、だ」湯野原が周囲を見回した。
「重要なのは、暗号に使われているアルファベッドが、わずか三種類しかないことだと思うんだ」
 瀧川は歩きながら考えたことを話した。
「たしかに、少ないな」と湯野原が頷く。
「たとえば、目的地までの道順を人に教えるとき、二通りの伝え方がある。ひとつは、『この道を真っ直ぐに進んで、二つ目の交差点を右に曲がる』と方向のみで指示する方法。もうひとつは、『この先のコンビニの角を右に曲がって、ガソリンスタンド前の交差点を左に曲がる』というように、建物などを目印にして行き方を示す方法だ」
「うん」
「アルファベットが三種類だけ、という点から、おそらく子供たちはひとつめの方法を採用していると思う」
「なるほど」
「となると、アルファベットは方角、もしくは方向を示している可能性が高い」
「方角というのは、東西南北ってこと?」湯野原が訊く。
「そうだ」と瀧川は頷いた。「しかし東西南北だと、少なくともアルファベットが四種類必要になる。だから方角じゃない」
「てことは――」
「方向だ。方向なら、真っ直ぐ進め、右に曲がれ、左に曲がれ、の三種類あれば成立する」
「ああ、たしかにね」
 湯野原は頷いたが、すぐに小さく首を振った。
「でも、たぶん違うと思う」
「違う?」瀧川は思わず訊き返した。
「その仮説には矛盾がある」
「どこがだよ」瀧川は納得できない。
「いま俺たちはスタート地点のアオバデンキ前に立っている」と湯野原が言った。「そして、これからどちらに進むかを決めようとしている」
「分かってるさ。それで?」
「だけど、まだ動き出していない。バス道は市内を東西に横切っているから、進む方向は東か、西かの二択だ」
「そうだな」
「最初の暗号はSだ。Sは、俺たちがどちらに進めばいいのかを示している。そして瀧川の説だと、Sは真っ直ぐか、右か、左か、その3つの内のどれかだ。でも、それだと……」
「……なるほど。そういうことか」瀧川は湯野原が言いたいことが分かった。「方向の指示は、俺たちが歩き出さなければ機能しないんだ」
 二人が東に向けて歩き出せば、真っ直ぐは東、右は南、左は北だと分かる。しかし立ち止まった状態で、真っ直ぐに進め、と指示されても動きようがない。
「だから最初のSは方向じゃなくて」と湯野原が言った。「方角を示していると思う」
「だけどアルファベットは3つしかないんだぜ」瀧川は反論した。「3つだけでどうやって東西南北の指定をするんだ?」
「できるさ」
「どうやって? 無理だろ?」
「いや、できるよ」と湯野原は答えた。「ここは郷咲西町の南端だ。つまり、アオバデンキから北へ、東へ、西へ歩いて行けば必ずゴールまでたどり着けるんだ。でも南へ進む必要はない」
「そうか、だから子供たちはアオバデンキをスタート地点にしたのか」
 瀧川は納得した。ここが出発点なら、たしかに方角の指定は三種類で事足りる。
「Sは北か東か西のどれかを指している暗号だってことだな」
 ところが、当然同意すると思っていた湯野原は頷かなかった。



「Sが東であれ、西であれ」と湯野原が続けた。「確実に言えるのは、次は北へ向かわなければならないってことだ」
「分かってるさ」2番目の暗号はAだ。「Sは東か西、Aは北を意味しているんだろう」
「問題は、どの角で北に曲がるか、だ」
 湯野原はスマートフォンを取り出して、地図アプリを表示させた。
「郷咲西町は東西におよそ三百メートル。そしてアオバデンキはそのほぼ真ん中に位置している。バス通りを東に向かえば北へ曲がる角は5つ。西へ向かえば4つある」
「たしかに」瀧川もスマホを覗き込みながら頷いた。
「町内に南北方向の道路は9本ある。東西方向の道路は1、2……6本だ」
 ざっと54か所で道路が交わっているわけだ。
「ということは、ゴールが道路に面した場所にあるなら、アオバデンキからゴールまで、東、西、北の三種類の指示だけで、たどり着ける理屈になる」
「なるほど」
「ただし」と湯野原が言った。「実際には袋小路になっていて抜けられない場所があるし、行き止まりになっている道もあるから、AやSのようにシンプルな指示だけではゴールまで行き着けない可能性が高い」
「だからMSとかAMSのような、二文字、三文字の指示があるんだろう」
「たぶんね」と湯野原が頷く。「じゃあ、その場合は、具体的にどういう指示になると思う?」
「そうだな……。二通りのやり方があるんじゃないか」瀧川は考えながら答えた。「ひとつは、『ふたつめの交差点を東に』と指定する方法」
「うん」
「もうひとつは、『この交差点はそのまま直進』を交ぜるやり方だ。『北、直進、東、直進』みたいに指定すればいい……んじゃないか」瀧川の声が少しずつ小さくなっていった。
「瀧川はどっちだと思う?」
「……いや」瀧川は首の後ろを掻いた。「どっちも違う気がする」
「どうして?」いたずらっぽく湯野原が訊ねた。
「最初の方法なら、三文字の暗号は必要ないからだ。『次の角を東へ』なら東の一文字でいいし、『ふたつめの角を北へ』だったら、『ふたつめ』を意味するアルファベットと、北を表すアルファベットの二文字あれば伝えられる。
 二番目の方法なら、二文字さえ要らない。東、西、北、直進の4つのアルファベットを使えば、スタートからゴールまですべて一文字で指示が可能だ」
「俺もそう思う」と湯野原が言った。
「つまり」瀧川は小さくため息をついた。「この暗号は、どちらの方法でもないってことだ」
「ふりだしに戻ったな」湯野原が肩をすくめる。ちらりとスマホを見て、「うわ、まだスタート地点から一歩も動いていないのに、もう十分経ってる。残り時間は二十分しかないぞ」
「マジか。時間が経つのが早いな」瀧川はため息をついて、晴れ渡った空を見上げた。「それにしても暑いな。日陰があれば、少しはマシなんだが」
 瀧川は辺りを見回した。残念ながら日陰は見当たらなかったが、ある一点で視線が止まった。
 しばらくそれを眺めてから、瀧川は低く呟いた。
「……俺たちは難しく考え過ぎてたのかもしれない」
「えっ?」湯野原が怪訝そうに訊き返した。
「ほら、あの店」瀧川は二十メートルほど離れた看板を指さした。「しのはら不動産と書いてある」
「あ、……本当だ」しばし看板を見つめていた湯野原が、ふっと息を吐くように笑った。「それじゃ、Sは固有名詞の頭文字ってこと?」
「その可能性はあるだろ」
「もちろん」湯野原が頷いた。「充分にあり得るね」
「忘れてたよ」と瀧川は言った。「道を教えるのには、『しのはら不動産屋の角を北へ』という伝え方もあるってことを」



 しのはら不動産は営業中だったので、瀧川と湯野原は店から少し離れた場所で立ち止まった。
「仮にSが、しのはら不動産の頭文字だとしたら、次のAも名前の頭文字のはずだよな」
 二人は辺りを見回した。
「あれじゃないか?」
 しのはら不動産の横から北向きに延びる片道一車線の道路。その道路沿いに幼稚園が見えている。
 愛らしいリスとスズメのイラストが添えられた看板には〈あけぼの幼稚園〉とあった。
 他にAに当てはまりそうな建物は見当たらなかった。
「行ってみよう」
 頷き合って歩き出す。
 幼稚園の前に着いた。週末だから園内に子供たちの姿はない。
「ここがAってことでいいよな」
「じゃあ、次はMSだ」
 あけぼの幼稚園の少し先に、信号のない小さな交差点があって、交差点の一角に店舗らしき建物が見えていた。
 その建物には〈前田木材店〉という看板がかかっていた。職人らしき男性が軽トラックの荷台に木材を積み込んでいる。
 手前の交差点まで行き、真っ直ぐ、右、左と三方向を見渡してみたが、次の目標であるASと覚しき建物は見えなかった。
「なるほど、読めてきたぞ」と瀧川は言った。「しのはら不動産からあけぼの幼稚園が見えて、あけぼの幼稚園からも前田木材店が確認できた。次の目標が見える範囲にあれば、固有名詞のイニシャルだけを指定してあるんだろう」
「だけど前田木材店からは、次のチェックポイントであるASが見えない。だからMの後にSをつけて、進むべき方向を示しているんだ」
「暗号の二文字目に使われているアルファベットはSとAとMだ。真っ直ぐと右と左。どちらも三種類だから数は合っている」
「問題は、S、A、Mと、真っ直ぐ、右、左が、どう対応しているかだな」湯野原が言った。
「Sがストレートの略じゃないか、というのはすぐに思いつくけど」
「その法則だと、右はライトのRで、左はレフトのLでなければ辻褄が合わない」
 二人は再び考え込んだ。
「もしかすると、Sは〈そのまま進め〉の意味じゃないか?」瀧川は言った。「SONOMAMAのSだ」
「それならMと右は対応している。でも左とAは合わないけど」
「そこが問題だな。AじゃなくてHだったらぴったり合うんだが」
 あれこれ考えてみたが、Aと左を結びつけることはできなかった。かといって他にいい案も思い浮かばない。
「とりあえず、Sを真っ直ぐだと仮定して進んでみるか」



 探偵たちは前田木材店の前を直進した。
 夏の午後はうだるように暑く、通りに人影はなかった。
 どこかで蝉がやかましく鳴いている。アブラゼミだ。
 もし俺が虫取り網を持った小学生だったら、と瀧川は思う。あの蝉の声を目指して行くんだけどな。
 遠い蝉の声に、過ぎ去った日の記憶が蘇った。
「俺は子供の頃、蝉は魔法が使えると思ってたよ」
 瀧川は隣を歩く湯野原に話しかけた。
「魔法?」意表を突かれたように、湯野原がこちらを見た。「蝉が?」
「蝉の声には、聴いた人の体感温度を上昇させる魔法がかかっている」
「たしかに」湯野原が吹き出した。「特にアブラゼミの魔法は強力だ。炎天下の戸外で鳴き声を浴びせられたら、気温が三度くらい上がった気がする」
「だろ?」
 他愛のない話をしながら歩いていくと、T字型の三叉路に行き当たった。
「ここで行き止まりか」
「Aらしき建物はなかったよな?」
 一応確認し合ったが、見落としなどしていないことは、二人とも分かっていた。
 Sが真っ直ぐでないのなら、右か左のどちらかになる……。
「どうする?」湯野原が気乗りがしない表情で訊いた。「前田木材店まで戻って、右と左の道も調べてみるか?」
「いや、止めておこう」瀧川は首を振った。「そんなやり方で正解を見つけても、俺たちの勝ちにはならない。あくまでも暗号を解いて先に進まなきゃ」
「同感だ」湯野原も言った。「しかし、そうなると……」
「分かってる」瀧川も認めざるを得なかった。「俺たちの仮説は間違ってたんだ」
 暗号は〈固有名詞+方向〉ではなかったのだ。
「やるよなあ、あの子たち」湯野原が嬉しそうに呟いた。「こんなに苦戦するとは思わなかったよ」
 瀧川も気持ちが軽くなった。けっこう時間を無駄にしてしまったが、可能性の低い推理にこだわり続けても楽しくない。最初に戻ってもう一度考えればいいじゃないか。
「だけど、いったい何を見落としたんだろうな」
 瀧川と湯野原は歩きながら、検討を続けた。
「もしかすると俺たちは」と湯野原が言った。「暗号に囚われ過ぎていたんじゃないか」
「そりゃそうさ。暗号を解くゲームなんだから」
「いや、そういう意味じゃなくて。ほら、(ヒント1)を覚えてるか?」と湯野原が訊いた。
「郷咲西町から出たらダメ、というやつだろ」
「なぜ、子供たちはそんなことをわざわざ書いたと思う?」
「つまり……」瀧川は考えながら答えた。「AやSやMは、西町以外にも存在するってことか」
「おそらく」湯野原が頷く。
「他の町にもあるなら、当然アルファベッドは固有名詞じゃない」
「そして二番目のアルファベッドも、東西南北や方角を示しているわけじゃない。それなら西町を出ないように指示できる」
 話しながら歩く二人の横を、配送の軽トラックが通り過ぎていく。
「どの町にも存在するものって、何だろう」と湯野原が言った。
「コンビニとか?」瀧川は答えたが、すぐに思い直した。「……のはずがないか。西町にあるコンビニはバス道沿いの一軒だけだ」
「あるいは」湯野原が周囲を見回した。「電柱とかマンホール……でもなさそうだ。逆に数が多すぎる。電柱なんて百本以上あるだろうし」
「てことは、どこの町にもあって、電柱より少なく、コンビニより多く存在するものか……」
 つまり、俺たちが探さなければいけないのは、郷咲西町以外の町にもあって、電柱より少なく、コンビニより多く存在するものだ。
 それは全部で三種類あり、単体でも複数でも存在している。
 そして、条件をすべて満たすものは、おそらくひとつだけだ。
「何だろう?」
 瀧川はあと少しで正解にたどり着きそうな予感がしていた。
 ただし、ものを考えるのに相応しい環境であれば、だが。
「ダメだ。暑過ぎる!」瀧川はぼやいた。「暑くて全然頭が働かないぞ」
 天気予報によれば今日の最高気温は36度らしい。アスファルトの照り返しがあるから、実際はさらに2、3度高いだろう。
「飲み物を買って、ひと息つこう」と湯野原が提案した。
「そうしよう」瀧川は一も二もなく同意した。「挑戦状の中に熱中症に注意しろと書いてあるんだ。それなのに熱中症になったら、あの子たちに笑われる」
「本当だな」と笑った湯野原が、ふいに真顔になった。
「どうした?」瀧川は一瞬どきりとした。「気分が悪くなったのか?」
「いや、やっと分かったんだ」湯野原がゆっくりと答えた。「挑戦状に注意とヒントが書かかれている理由が」
 湯野原が足を止めた。瀧川も立ち止まる。
「奇妙だと思わないか。最初の〈制限時間は30分です〉が(ちゅうい)なのは分かる。その次の〈郷咲西町から出たらダメです〉が(ヒント)なのも分かる。(ちゅうい)でもいいような気がするけど、(ヒント)でも成立する。だけど最後の〈水分をほきゅうしてください〉が(ヒント)なのはおかしい」
「たしかに、どうみても(ちゅうい)に分類すべき内容だな」
「それなのに子供たちは(ヒント)にした。なぜか? その理由は、これが注意ではなく本当にヒントだからだ」
「なるほどね」瀧川もようやく気がついた。「だからあの子たち、手ぶらで来い、と念を押したのか」
「出発地点に戻ろう」
 二人は来た道を引き返し、アオバデンキまで戻った。
 アオバデンキの前に立って東を見ると青い自動販売機が、西に視線を向けると白い自動販売機が見えた。どちらも清涼飲料水の自販機だ。
「挑戦状の最初のアルファベッドはSだ」
「SIROのS。つまり白の自販機を選べってことだったんだ」
 アルファベッドは自販機の色を表していたのだ。



 白の自販機から三十メートルほど離れた場所に、赤色の自販機が見えた。炭酸飲料で有名なメーカーのものだ。
 2番目のAだ。二人は急いで赤い自販機に向かった。
「ここから、次の自販機が見えるはずだけど」
「あった、あれだ」
 遠くに緑と白の自動販売機が並んでいるのが見えた。MSだ。
 MSの前まで行くと、さらに遠くに青と白の自販機が見えた。
「なるほどね」と瀧川は頷いた。「Aは赤でもあり、青でもあるわけだ」
 瀧川と湯野原は、リレーのように自販機から自販機へと辿っていった。
 赤と青の自販機の前に立って、辺りを見回す。
 交差点の向こう側に濃緑の自動販売機があった。
「よし、見つけた」
 歩行者用信号が点滅を始めていたので、瀧川は早足で交差点を渡ろうとした。
「ストップ」後ろから湯野原の声が呼び止めた。「交差点の向こうは郷咲東町だ。渡ったら俺たちの負けになる」
「そうだった」
 瀧川は慌ててUターンした。
「危ねー。もう少しでゲームオーバーになるところだ」
 ふう、と胸を撫で下ろす。
「だけど、他にグリーンの自販機は見当たらないけどな」
「いや、どこかにあるはずだ」
 AAの自販機の横から細い路地が住宅地の奥に向かって延びていた。日陰になった路地の先は国道と平行に走る別の通りに繋がっており、青葉が繁る樹木の隙間に緑色の筐体がわずかに覗いていた。
「こっちか! 保護色じゃないか。よほど注意して探さないと分からないぞ」
 かすかに湿り気を帯びた路地を抜け、ふたたび明るい道路に出た。自販機の全体が視界に入った。こちらが正解のMだ。
「まったく。こんなトラップをよく見つけたよな」
 二人は感心しながら、コインランドリーの前に並んでいる白と青の自動販売機の前を通り過ぎた。
「さて、残るはひとつだ」
 二つ先の四つ角に公園があり、公園のそばに3台の自販機が並んでいた。赤と白と青だ。
「ということは」
「あの公園がゴールだ」
 公園に近づくにつれて、蝉の鳴き声が高まっていく。
 遊んでいる子供たちの中に、哲と叶と優樹の姿があった。
「お、いたいた」
「よお、待たせたな、皆の衆」
 問題を解き、意気揚々と目的地に辿り着いた瀧川と湯野原は、少年探偵たちからブーイングを受けた。
「おそーい」
「もう待ちくたびれたよ」
「こんなに時間がかかったのに、なんで『どうだ!』って自慢顔なの?」
 子供たちが口々に言う。
「まあ、そういうな」
「制限時間はまだ二分残ってるじゃないか」
 二人は澄まして答える。
 瀧川はほっとした途端、猛烈に喉が渇いていることを思い出した。
「待たせたお詫びに、みんなにジュースをごちそうするよ。好きなものを選んで」
「やった!」
 子供たちは自動販売機の前に駆け寄った。
「どれにしよっかなー」
 赤と白と青の自動販売機の前を行ったり来たりしながら、三人はジュースの品定めを始めた。
「僕は白桃天然水にする」
「おれ、微炭酸スプラッシュ!」
「僕は大空のサワーレモンがいい」
「だから、ここをゴール地点に選んだのか」探偵たちは苦笑した。
 白桃天然水と、大空のサワーレモンと、微炭酸スプラッシュが同時に買えるのは、郷咲西町にある販売機の中で、きっと、ここだけだ。

posted by 沢村浩輔 at 01:20| Web小説

2022年11月25日

東京創元社さんからいただきました




ありがとうございます。
楽しみに読ませていただきます。

posted by 沢村浩輔 at 01:40| お知らせ

2022年10月22日

南雲堂さんからいただきました



今回の画像は、同封されていた栞を表紙に重ねてスキャンしました。
先程、南雲堂さんのサイトを見たところ、この栞はサイン会で本書を購入した人だけがゲットできるレアなアイテムらしいです。

posted by 沢村浩輔 at 01:15| お知らせ