2019年07月21日

『2019年のシャーロック・ホームズ』


今回の記事は、以前このブログでお知らせしていた『時喰監獄』のPR企画です。
新作と共通のモチーフを用いて短編を書いてみました。
それが本当にPRになるのか、と訊かれると作者にも謎です。単に書きたかっただけという気もします。
思いつくままに書いたので少し長めですが、愉快な話なので、よろしければご一読を。


『2019年のシャーロック・ホームズ』

  T

 スクランブル交差点の信号が青に変わった。
 倉橋大樹(くらはしともき)が歩き出すと、前から、左右から、歩行者の一群がみるみる近づいてくる。
 そして小さな奇跡が起こる。
 四方向からの人並みが、誰にもぶつからず、わずかな隙間を魔法のようにすり抜けていくのだ。
 大樹はこの瞬間が好きだった。
 これが映画のワンシーンで、何度もリハーサルを繰り返したというなら分かる。
 だけど行き交う人たちは皆、ぶっつけ本番で、歩く速度を緩めることもなく、シューティングゲームの達人のように、次々に立ち現れる相手をかわしていく。
 人は空を飛ぶ鳥の群れが一斉に向きを変える様に驚くけれど、鳥たちだって、このスクランブル交差点を行き交う人間を見下ろして感心しているかもしれない。
 しまった、また変なことを考えてしまった。子供の頃から想像力が豊富で、お前は変わってるな、と友人たちに呆れられることも多い。だけど、これでも一応、医者の卵で、けっこう忙しい毎日を送っているのだ。
 ゴールデンウィーク中の街中には人が溢れていた。皆、普段よりも寛いだ表情をしている。穏やかな休日の午後だった。
 そのとき、前方でささやかな混乱が起こった。
 ひゅん、と風が吹き過ぎていき、大樹の全身に軽い鳥肌が立った。服がパチパチと小さな火花を散らす。ものすごい静電気だ。大樹だけでなく、交差点にいた全員がなぜか静電気を帯びてしまったらしい。戸惑ったように辺りを見回す人もいた。冬ならともかく、なぜこの季節に? と大樹は首をひねった。ほどなく前を行く人たちが何かを迂回し始めた。人の流れが乱れて、ちょっとした渋滞が起こっている。
 どうしたんだろう、と思いながら進んでいくと、前から歩いてきた女性の二人連れが、「ドラマの撮影かな?」と話しているのが聞こえた。
 やがて交差点の真ん中に突っ立っている二人の男が見えてきた。
「あ、ほんとだ」大樹は思わず微笑んでしまった。
 左側の長身の男が、インバネスに鹿撃ち帽という――シャーロック・ホームズの出で立ちをしていたからだ。
 周囲に撮影スタッフの姿はなかったが、なるほど、映画かテレビドラマのロケのようだ。ホームズと対峙している長身の不敵な面構えの男は、ホームズの宿敵にして悪の化身、あのジェイムズ・モリアーティに違いない。
 けっこう映画には詳しいつもりだったが、どちらも大樹の知らない俳優だ。だが二人とも、これ以上ないほどの適役だった。容姿も身にまとう雰囲気も、まさにイメージにぴったりだ。キャスティング担当のスタッフに拍手を送りたい。
 一方で演出はまるで駄目だった。ホームズとモリアーティは、呆然とした表情で辺りを見回している。これじゃロンドンから目隠しをしたまま東京まで連れて来られた挙げ句、いきなりスクランブル交差点のただ中に置き去りにされたようにしか見えない。
「モリアーティ。どんな手を使ったんだ?」ホームズが喘ぐように傍らのモリアーティに訊ねた。ずいぶんクラシックな響きの英語だ。「どうやって僕をこの不思議な場所に連れてきた?」
「……分からん」訊かれたモリアーティも困惑しきっていた。「いったい、どうなっているんだ」
 大樹はにやりとした。今の会話を聞けば物語の設定はだいたい想像がつく。二人は19世紀のロンドンから21世紀の東京にタイムスリップしてしまったのだ。そして途方に暮れている、というわけだ。
 ホームズを演じている男と視線が合った瞬間、なぜか大樹はどきりとした。
「ねえ君」とホームズが真剣な表情で話しかけてきた。「君はこの街に住んでいるのかい?」
 声をかけられたのは意外だったが、そういう趣向の番組なのだろうと思い直す。
「ええ。まあ」と大樹は答えた。正確にはこの街の住人ではないが、東京都民だからいいだろう。
「ここがどこなのか、教えてくれないか?」
 冗談を言っているようには見えなかった。
「どこって、東京ですよ。もちろん」と大樹は愛想良く答えた。
「トーキョウ?」ホームズは呆気にとられたようだった。「たしか、日本の首都だね」
 ホームズの横顔は鋭く、少し怖い感じさえした。
「ちなみに、今日は2019年の5月4日です」と大樹はアドリブでつけ加えた。
「まさか……」ホームズは絶句した。迫真の演技だ。「なぜ、僕たちが2019年の東京に……」
「それはこいつが、そう言っているだけだ」モリアーティがじろりと大樹を睨んだ。これ以上ないほどに油断のならない目つきだ。「本当かどうか、分かるものか」
 歩行者用信号が点滅を始めた。交差点から人がいなくなっていく。ところがホームズとモリアーティは交差点の真ん中に突っ立ったままだ。
「そろそろ戻りませんか?」大樹は点滅する信号を気にしながら言った。
「同感だ」とホームズが頷く。「だが、問題は、どうやって戻るかだ」
「え?」今度は大樹が戸惑う番だった。「……どうやって?」
 奇妙なやりとりを交わしているうちに、歩行者用信号が赤になった。
 信号待ちをしていたたくさんの車が走り出す。案の定、大樹たちは激しいクラクションを浴びせられた。窓を開けて怒鳴っている運転手もいた。
「なぜ彼は怒っているんだ?」ホームズが怪訝そうに大樹に訊ねた。
「僕たちがここにいるからですよ!」大樹は呆れて言った。「あっちへ渡りましょう。早く!」
 大樹はクラクションの嵐の中を舗道めざして走った。二人も少し気まずそうな表情で大樹の後をついてくる。
 無事に舗道まで辿り着いた。大樹はむくむくと怒りがこみ上げてきた。映画かテレビか知らないが、迷惑にも程がある。
 ひとこと文句を言ってやろうと振り返ると、ホームズとモリアーティは、目の前をビュンビュンと行き交う車の群れを、魂を抜かれたように眺めていた。まるで初めて車を目にした子供みたいだった。
 ホームズがゆっくりと大樹を見た。「……信じ難い速度だ。馬も使わずに、いったいどうやって動いているんだ?」
「……まだ演技を続けるんですか?」大樹はげんなりして言った。どうして? 監督の「カット!」の声がかからないから?
「教えてくれないか」ホームズはあくまでも真剣だった。「どうしても知りたいんだ」
「……あれは自動車という鉄の馬車です」大樹は仏頂面で説明する。まったく僕はお人好しだ。「馬に代わって機械が動かす乗り物です。ドイツ人が発明して、アメリカで大量生産の方法が編み出されて、日本の車も世界中で使われています。高速道路に乗れば、一日で千キロ彼方まで行けますよ。すごいでしょう?」
 大樹の皮肉は通じなかった。
「すごいな!」ホームズは目を輝かせた。「あの自動車をぜひ運転してみたいのだが、どうすればいいだろう?」
 まずい。これでは向こうのペースだ。大樹は冷たく言った。
「無理です。それより撮影スタッフはどこですか?」
「失礼?」とホームズが訊き返した。「もう一度言ってもらえるかな」
「スタッフの皆さんはどちらですか、と訊いてるんです」
「君の英語の発音はとても聞き取りやすい。だが、申し訳ないが、君が何を言っているのか、よく分からないんだ」
 分からないはずがないだろう、と大樹はますます面白くない。もちろんネイティブのようには話せないが、難しいことは何も訊いていないはずだ。
「そういえば自己紹介がまだだったね」と鹿撃ち帽の男が手を差し出した。「僕はシャーロック・ホームズだ。ロンドンで私立探偵をしている」
「倉橋大樹です。大学で医師になる勉強をしています」
 しぶしぶ握手をして視線を交わした瞬間、大樹は腹立ちを忘れてしまった。ホームズの目が、惚れ惚れするような叡智と勇気を湛えていたからだ。それは子供の頃から、大樹が繰り返し思い描いていた、名探偵シャーロック・ホームズの眼差しだった。

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 三十分後、大樹は、自称シャーロック・ホームズと、ジェイムズ・モリアーティと覚しき(彼は大樹に名前を告げず、握手もしなかった)男と、交差点からほど近いカフェで紅茶を飲んでいた。
 結局、待てど暮らせど撮影スタッフは姿を見せず、その間、大樹は二人の英国人から息つく暇もないほどの質問攻めをくらう羽目になった。
――この街には、どのくらいの人が住んでいるのか?(日本の人口は一億人以上だと説明したら、ホームズから君のユーモアは素晴らしいと褒められた)
――君たちがキモノを着ていないのは、なぜか?(今日が成人式の日なら、この質問は出なかったかもしれない)
――君の国の指導者はずいぶんと若いのだね?(違います。あれは元首の肖像画ではなく、商品の広告です)
――皆が手にしている、あの小さな光る箱は何なんだ?(言うまでもなく、歩行者が持っているスマホを見ての質問だ)
――この国の法を犯した場合、どういう罰則があるのか?(モリアーティの質問だ)
――日本にも、僕のような探偵はいるのか?(ホームズの質問だ)
 どの質問も説明が面倒なものばかりだ。だが、これらの質問はまだマシだった。極めつけは、
――それで、21世紀の世界情勢はどうなっている?
 そんなこと、誰にも分かるものか! 大樹はとうとう音を上げて、「そうだ、午後のお茶にしませんか」と提案した。
 幸い、二人に異論はなく、大樹は最初に目についたカフェに飛び込んで、ようやくひと息つくことができた。とはいえ、問題は何も解決していない……。
「すると、あなたたちは」大樹はこほんと咳払いをして、二人を睨んだ。「あくまでも、自分が本物のシャーロック・ホームズと、ジェイムズ・モリアーティだと言い張るんですね?」
「もちろんだ。この世に私は一人しかいないし、贋者に会ったことはないよ」ホームズが当然のように言った。「僕は自分が何者かを人に尋ねようとは思わない。知りたいのは、なぜ僕たちがトーキョーにいるのか、ということだ」
「おい。正直に答えろ」ティーカップを片手にモリアーティが会話に割り込んできた。熱い紅茶がたちまちアイスティになりそうな声だった。「ここは本当は地獄か、あるいは天国じゃないのか?」
「なんですか、それは?」大樹は面食らった。
「なぜなら」とホームズが代わって答えた。「僕とモリアーティは、ついさっきまでスイスのライヘンバッハにいたからだ」
「ライヘンバッハ!」大樹は目を丸くした。『回想のシャーロック・ホームズ』収録の「最後の事件」に出てくる、ミステリ好きなら知らぬ者はいない、ホームズとモリアーティが対決した場所である。
「滝の上で決着をつけようとして、僕たちは滝壺に落ちた……はずだったのだが」
 ホームズは言葉を切って、小さく頭を振った。
「ところが、気がつくと二人ともここにいた」とモリアーティが続けた。「私が最初に思ったのは、ここは天国か、それとも地獄か、という疑問だった。だが、お前はそのどちらでもないと言う。では訊くが、なぜ死んだはずの我々が、天国でも地獄でもない日本にいるのだ? 納得のいく説明をしてみろ」
「説明、といわれても……」
 大樹は紅茶をすすりながら、目の前の二人を観察した。
 ホームズはメニューを手にとって、しげしげと眺めていた。
 モリアーティは悠然と足を組み、人差し指でテーブルを叩いている。苛立っているようには見えない。思考を整理するときの癖なのかもしれない。
「この街には匂いがないな」ぽつりとモリアーティが呟いた。「たぶん早晩、ロンドンの路地の、ドブの匂いが懐かしくなるだろう」
 未だに大樹は二人の素性について判断をつけかねていた。
 もちろん常識で考えれば、彼らが本物であるはずがない。その確率はゼロだ。そもそもホームズもモリアーティも、コナン・ドイルが生み出した実在しないキャラクターなのだから。
 ……だけど、と大樹は心の中で呟いた。得意の空想癖が入道雲のように湧き上がってくる。それでも彼らが本物だとしたら? 本物のシャーロック・ホームズと紅茶を飲み、こうして言葉を交わしているとしたら? 自分でも不思議だが、大樹は彼らが現代の俳優ではなく、19世紀の人間であることを少しずつ信じ始めていた。
「つい先程まで」と大樹は確認した。「ライヘンバッハの滝にいたとおっしゃいましたね?」
「そうだ」ホームズが頷いた。「僕と教授は組み合ったまま、滝壺へ向かって落ちた。ところが気がついたら、あの場所に立っていた」
「それは1891年の、5月4日の、午後のことですね」
「なぜ君がそれを知っている?」ホームズは一瞬、驚いたようだったが、すぐに微笑した。「どうやら、我が友ワトスンが書いた僕の本は、日本でも読まれているようだね」
「ええ。あなたの活躍譚は日本でも大人気ですよ。だから僕は一目であなたがシャーロック・ホームズだと分かったんです」と大樹は言った。「そして、この人が、あのモリアーティ教授に違いないと」
 モリアーティは返事もしなかった。彼は黙って大樹とホームズの会話に耳を傾け、何かの判断を下しつつあるようだった。
「僕とモリアーティは、ロンドンの光と影を象徴している」とホームズが言った。「日が沈まぬ大英帝国の首都にも、夜があり、夜よりも深い闇がある。僕の仕事は、光に満ちた場所に侵食しようとする闇を追い払うことだ。そして彼はロンドンの半分――暗がりと闇のすべてを支配し、その版図を拡大しようと企んでいる」
「お二人は今、天国でも地獄でもなく、128年後の日本にいます」大樹はきっぱりと告げた。
 ホームズは少しのあいだ黙っていたが、やがてこくりと頷いた。
「信じるさ。感情の一部はまだ納得していないが、この街の光景を見れば、ここが遙かなる未来の都市だということを、認めざるを得ないだろう」
「ぼくも信じますよ」大樹も言った。「あなた方が本物のシャーロック・ホームズとジェイムズ・モリアーティだと」

  V

「僕たちがまだ生きていて、遙かな未来へ辿り着いてしまったことを認めるよ」と二杯目の紅茶を味わいながらホームズが言った。「しかし大樹君。人が時空を飛び越えるという未曾有の現象に対しては、さすがの僕も五里霧中だ。君に意見があれば聞かせてくれないか」
「時空を飛び越えたというのは、こいつがそう言ってるだけだ」モリアーティが大樹を顎で示した。「やはり我々は死んだのかもしれん」
「もし、ここが本当に天国か地獄だとしたら」と大樹は言った。「正直にそう話しますよ。お二人に嘘をつく理由はありませんから」
「僕たちが日本にいるのは確かなようだよ、モリアーティ教授」ホームズが言った。「このメニューに使われている文字を見たまえ。僕は以前、日本語について調べたことがある。日本語というのは中国から伝来した漢字と、日本人自らがつくりだしたひらがなとカタカナ、これら三種類の文字体系を組み合わせて表記する、世界で唯一の言語だ。このメニューは間違いなく日本語で書かれている」
「ふん」モリアーティはメニューを一瞥すると鼻を鳴らした。「いいだろう。ここが日本だということはとりあえず認めてやる。ならば次の疑問だ。なぜそんなことが起こったのだ? 19世紀の英国に生きていた我々が、どうして21世紀の日本にいる?」
「それはまだ、僕にも分からない」ホームズは悔しそうに言った。
 当然だと大樹は思った。この事象に説明をつけるには、19世紀には存在しなかった概念が必要なのだ。いかに世界一の名探偵といえども、未知の概念を推理で導き出すことは不可能だった。
「お前に訊いているんだぞ、トモキ」モリアーティは大樹を冷ややかに見据えた。「お前はどう見ても知性的とは思えないが、それでも俺たちよりも128年も後に生きている。その間に人類が獲得した叡智(が少しはあるんだろうな?)で説明をつけることはできないのか。のんびりと紅茶を飲んでいないで、少しは中身のあることを話してみろ」
 ついに大樹は稀代の悪党から罵られてしまった。なかなか味わえない経験である。
「分かりましたよ、モリアーティ教授」と大樹は言った。「お二人がここにいる理由について、僕にはひとつの仮説があります。栄光に満ちた(もし皮肉に聞こえたとしたら、それは教授がひねくれているからです)ビクトリア朝から現代に至る多くの賢人が生み出した知識が、僕に力を与えてくれました」
「前置きが長いのは凡人の悪徳だぞ」モリアーティがからかった。
「たしかに」と大樹は逆らわずに言った。「では説明します。お二人がライヘンバッハの滝から転落し、消息を絶ってから四年後の1895年。英国の作家、H.G.ウェルズが『タイム・マシン』という小説を発表しました。主人公が時を自在に超える機械を発明して遙かな未来に旅をする話です」
「時を超える、だと?」
「そうです」と大樹は頷いた。「文字通り、この小説は時を超えた男の物語です」
「それは面白そうだ」ホームズは興味を覚えたようだった。「ロンドンに戻ったらぜひ読んでみるよ。ウェルズ氏の著作は、きっと僕の忌々しい退屈を和らげてくれるだろう」
「ウェルズの小説など滅びてしまえ」とモリアーティが忌々しげに言った。「私はタイムマシンなど見たことはないし、そんなものを使った覚えもないぞ」
「時を超えるには、二つの方法があります」と大樹は言った。「ひとつはウェルズの『タイム・マシン』のように、機械を用いて意図的に未来や過去へと移動することです。もうひとつは、何らかの要因で、意図せずに時間を飛び越えてしまうことです。前者がタイムトラベルだとしたら、後者はタイムスリップと言えるでしょう」
「なるほど」モリアーティがにやりと笑った。「たしかに俺たちは、滝の上からスリップした」
「もう一つの違いは、さらに重要です。タイムトラベルならタイムマシンを使って、いつでも元の時代に戻ることが可能です。しかしタイムスリップは自分の意志で時間をジャンプすることができません」
「ならば帰りは、そのタイムマシンとやらを使おう」とモリアーティが言った。「この世界では、誰もが鉄の馬車に乗ってどこへでも行ける。もちろん時を超える馬車だってあるんだろう?」
 大樹は返事に窮した。
「……なぜ黙っている?」
「それが、ないんです」大樹は小声で答えた。
「何だと」モリアーティの眉が跳ね上がった。「バベルの塔のような建物がそこらじゅうに林立し、途轍もない速度で走る鉄の馬車が道路を埋め尽くしているのに、タイムマシンはないのか?」
 ありません、と大樹は言った。
「ウェルズが初めてタイムマシンの概念を世に出してから130年近くが経ちますが、人類は未だタイムマシンを実用化することはおろか、その原理さえ分かっていないんです」

  W

「21世紀にも」ホームズも衝撃を受けたようだった。「タイムマシンはないのか」
「素晴らしい知らせだな、ホームズ」モリアーティが面白がるように言った。「どうやら私たちは、この身に再びタイムスリップが起こるのを、ぼんやり待つしかなさそうだぞ」
 ホームズが頬の内側を噛んだような顔をした。
 モリアーティは上体をねじって、周囲に広がる21世紀の光景をしばらく黙って眺めていた。その顔にゆっくりと微笑が広がる。「ここで生きていくのも悪くない。そう思わないか、ホームズ」
「たしかに僕も」静かにホームズが応じた。「この想像を絶するような未来世界には尽きぬ興味がある。21世紀の文明が生み出した知識や理論を可能な限り知りたいと強く思うよ。だけど僕たちは帰らなければならない」
「なぜだ?」
「この時代に、君のような悪の化身を解き放つわけにはいかないからだ、モリアーティ。僕は君を1891年のロンドンに連れ帰り、法廷で裁きを受けさせる」
「どうやって私を連れ帰るつもりだ?」モリアーティがからかうように言った。「我々は自らの意志とは無関係に21世紀の日本に来てしまった。この時代と場所を選んだのは、神か悪魔か知らぬが、そいつが決めたことだろう。ならば我々をここに留めるのも帰すのも、そいつの気分ひとつだ。ホームズ、お前が決められることではない」
「ロンドンの法廷が怖いのか、モリアーティ」ホームズが挑発した。「たしかに21世紀の警察は君を捕まえないだろう。君はここには存在しないはずの人間だからね。だが唯一、僕だけは君を知っている。君がいかに冷酷で奸智に長け、多くの罪も無き人々の弱みを握り、ときには命まで奪い、その財を築き上げてきたか。どれほど多くの害毒をこの世に流してきたか、僕だけは知っている。君がどうしても帰らないというなら、僕にも考えがある。この時代の警察にすべてを話し、君を拘束するように要請する。君が類例のない危険人物であることを、僕の力のすべてを使って彼らに理解させるつもりだ。そのときには」ホームズは大樹を見た。「君に通訳を頼みたい。僕に力を貸してくれ」
「私のことよりも、自分の心配をしたらどうだ、ホームズ」モリアーティが含み笑いをした。
「何が言いたい?」
「私はここでも生きていけるだろう」とモリアーティは言った。「だが、ホームズ。お前は違う。この時代にお前の居場所はない」
 ホームズが微かにたじろいだ。
「明敏なお前はもう気づいているはずだ。私が属する領分――悪は、19世紀であろうが、21世紀であろうが、その本質は変わらないし、滅びることもない。だがお前が信奉する正義は違う。正義は時代が変わればその様相を変える。悪人は他の悪人の存在に寛容だが、正義は恐ろしいほど排他的だ。この時代の正義は、お前の活躍を認めないだろう」
 ホームズが強く奥歯を噛み締めたのが分かった。
「私は違うぞ。19世紀のロンドンで無法者を束ねて思いつく限りの犯罪を実行した。それでもロンドン警視庁は私に手を触れることもできなかった。私はあの時代にできることはやり尽くした。組織をさらに大きくして欧州大陸に版図を広げても、それは量の拡大に過ぎぬ。しかし21世紀なら新しいことができる。まったく質の異なる悪がこの世界に誕生しているはずだ。私はそれを、心ゆくまで味わってみたいのだ」
 モリアーティは言葉を切ると、最大の好敵手である男に向かって、鳥肌の立つような笑みを投げた。
「ホームズ。19世紀にはお前一人で戻れ。私はここに残る」
「そんなことは許さない」ホームズは素早く拳銃を取り出すと銃口をモリアーティの胸に向けた。「僕は必ず君をロンドンに連れて帰る。そして法の裁きを受けさせる。それが僕の使命だ」
 店内のあちこちから小さな悲鳴が上がった。
「もし元の時代に戻ることができないのなら」ホームズは決然と告げた。「僕はこの銃で君を撃つ」
「ホームズさん!」大樹は愕然となった。
「たしかに彼は21世紀ではまだ何も違法行為を為していない。警察は教授を捕まえることはできないんだ。だが、この時代に彼を解き放ってしまえば、彼はたちまちあらゆる悪事を考え出し、躊躇いなく実行するだろう。そして、その悪事はあまりに巧妙に企てられるため、警察も彼を捕まえることはできないだろう」
「その通りだ」モリアーティが嘯いた。
「だから彼を撃つしかない」とホームズは言った。「たとえ、そのために僕が裁かれることになったとしても、だ」
 ホームズとモリアーティは、銃を挟んでしばらく睨み合った。
「ちっ」モリアーティが小さく舌打ちをした。「本気のようだな、ホームズ」
「もちろん」ホームズが微笑した。「本気だとも」
 ……まずい。大樹は焦った。ホームズは本当にモリアーティを撃つ気だ。彼を犯罪者にするわけにはいかない。何とか止めなければ。大樹は必死に考えた。でも、どうすれば……。銃の引き金にかけたホームズの指に力がこもった。
「待って下さい!」と大樹は叫んだ。
 ホームズが視線だけをこちらに向けた。
「ホームズさん」大樹は他の人たちを刺激しないように小声で懇願した。「銃を下ろして下さい。日本では銃の所持は禁止されています」
「安心したまえ。彼を撃つ気はない」ホームズが静かに言った。「さっきも話したように、僕はモリアーティを19世紀のロンドンに連れて帰る。その決意は本気だと言ったんだ」
「でも、どうやって……」大樹はおずおずと訊いた。
「いきなり未来へと放り出されて、少しばかり戸惑ってしまったが、ようやく分かったよ」とホームズが言った。「僕たちが1891年に戻るためには、もう一度、あのときと同じ状況を再現すればいいのだと」
「同じ状況?」
「そうだ」ホームズが頷く。「僕とモリアーティは、ライヘンバッハで目も眩むような高みから滝壺に向かって落下した瞬間に、130年近い時を超えた」
 だとすれば、とホームズは自分に言い聞かせるように話した。
「もう一度、遙かなる高みから落ちれば、元の時代に戻ることができるはずだ。そう、必要なのはスリップだ。タイムスリップを誘引するためには、僕とモリアーティは文字通りスリップしなければならないのだ」
「分かっているのか、ホームズ」とモリアーティが反論した。「高みから跳んだはいいが、もしタイムスリップしなかったら、我々は死ぬことになるぞ」
「〈悪のナポレオン〉と呼ばれた君でも」ホームズは微笑んだ。「死ぬのは怖いとみえるな」
「馬鹿を言え」モリアーティは鼻を鳴らした。「私は今日まで一度たりとも、真の恐怖を感じたことはない。だからロンドンの闇を支配できたのだ」
「ならば決まりだ」ホームズは銃をしまうと立ち上がった。「大樹君。日本にライヘンバッハの滝に似た場所はあるかね?」
「ライヘンバッハの滝、ですか?」大樹は呆気にとられた。
「そうだ」モリアーティを見据えながらホームズが言った。「我々には決着をつける場所が必要だ。最後の決着に相応しい場所が」
「あります!」大樹はふいに思い当たった。「ぴったりの場所が。この東京に」

  X

 大樹は急いで精算を済ませると、カフェを出て地下鉄に乗った。ロンドン子の二人は自動の券売機や改札口に興味津々の様子だった。世界で最初に地下鉄を走らせたのはロンドンだったなと大樹は思い出した。
 地下鉄を下りて、再び地上に出た。
 大樹はゆったりとカーブしている坂道を上っていった。後ろを振り返ると、ホームズとモリアーティがついてくる。自分がこの二人を引率して東京の街を歩いていることが未だに信じられない。だがこれは夢ではないのだ。
「おい、ホームズ。あの建物はどうだ」モリアーティが長い腕を伸ばしてニコライ堂を指さした。「あの大屋根の上で雌雄を決したら、ちょっと面白いじゃないか」
「駄目ですよ」大樹は慌てて言った。「ニコライ堂は、日本のロシア教会の総本山なんですよ。その屋根に土足で上ったりしたら、お二人は19世紀に帰ってしまうから構わないでしょうけど、後で僕が叱られます」
「分かっている。君に迷惑はかけない」ホームズが優しく言った。
「まったく気の小さい男だな、トモキ」とモリアーティが首を振った。「そんなことでは、ひとかどの悪人にはなれないぞ」
「なるつもりはありません」大樹は断固として言った。「でも、このまま通り過ぎるのはちょっと残念な気もします。実はニコライ堂がこの場所に建てられたのは1891年なんですよ。ちょうどお二人がロンドンで激しい攻防を繰り広げた年です」
「ほう」ホームズが目を細めて、ニコライ堂を見上げた。「それは知らなかったな」
 坂道を上がると神田川に出た。橋が架かっている。東京に住む人間ならよく知っている、かの聖橋だ。
 大樹はくるりと振り返り、両手を広げた。
「着きましたよ。ホームズさん、モリアーティ教授。さあ、どうぞ思う存分、戦って下さい」
 ホームズとモリアーティはしばらくのあいだ黙っていた。やがて、ホームズが小さく咳払いをした。
「……君が言った日本のライヘンバッハの滝というのは、この橋のことかい?」
「そうです。見て下さい」大樹は聖橋の手すり越しに、眼下を流れる神田川を指さした。「ライヘンバッハの滝には負けるでしょうが、この橋もかなりの高さがあります。ここから川面に達するまでの滞空時間は、たぶん数秒は確保できます。タイムスリップするのに充分の時間です」
「ふむ、なるほど……」ホームズがしかつめらしく呟いた。英国紳士なので不満を露わにはしない。だが内心は満足していないことが充分に伝わってきた。
「それに、大事なのは」と大樹は身振りを交えて力説した。「ここなら、万が一、タイムスリップしなかったとしても、ずぶ濡れになるだけで済む、ということです」
「面白い」
 その声は少し上から聞こえた。モリアーティが音もなくふわりと、聖橋の手すりに飛び乗ったのだ。教授は、艶やかで丸みを帯びた手すりの上に恐れ気もなく立ってホームズを見下ろした。
「私も彼の意見に賛成だ」とモリアーティが言った。「ここで我々は決着をつければいい。ライヘンバッハでつけられなかった決着を」
「ようやく帰る気になったか、教授」ホームズが微笑した。「いい心がけだ」
「勘違いするな」モリアーティも微笑む。「帰るのはお前ひとりだ、ホームズ。ここから叩き落として、お前だけを19世紀に送り返す」
「ほう」ホームズは軽く膝を曲げると、軽やかに手すりの上に飛び乗り、モリアーティと向かい合った。
 なんだなんだ、と通りかかった人たちが足を止めた。「ドラマのロケか?」
 やはり、そう思われてしまうわけである。しかし手すりの上で対峙している二人は、周囲の思惑など気にしなかった。
「さっきも言ったはずだ」とホームズ。「必ず君を連れて帰ると」
「勝負だ。ホームズ」モリアーティが大理石の上を滑るように動いた。
 間合いを保ったまま、ホームズが一歩、後ろに下がった。
「まさか、ライヘンバッハの決着を、遙かなる日本でつけることになろうとは」ホームズが嬉しそうに呟く。「だが、それもまた良かろう」
 モリアーティが両手の拳を顔の前で構えた。クラウチングスタイル――ボクシングの構えだ。
 対するホームズは、スパーリングの相手を務めるように、右足を引き、胸の前で手の平を広げた。もしかすると、と大樹はわくわくした。これがあの有名な「バリツ」の構えだろうか。
 モリアーティは背を丸め、ゆっくりと体を左右に揺らす。恐ろしいほど様になっている。防御と攻撃が完全に一体と化していることが、素人目にも分かった。
 いきなりモリアーティが鋭いジャブを放った。190センチ近い長身で、腕が長いモリアーティのジャブが、信じ難いほどのリーチでホームズを襲った。
 ホームズは避けきれず、右手でモリアーティのパンチを受けた。ホームズは巧みに上半身の力を抜き、パンチの威力を減じた。だが予想以上の衝撃らしく、ホームズの顔がわずかに歪んだ。
「シャーロック・ホームズはボクシングの達人だと、忠実なるワトスンが著書の中で褒めちぎっているのを読んだが、私に言わせれば、大したことはないな」
 モリアーティの挑発に、ホームズは穏やかに応えた。
「ボクシングは駆け引きのスポーツだ。ただ力任せに押せばいいわけじゃない」
「ふん。負け惜しみか」
 モリアーティが再びジャブを放つ。目にも留まらぬ速度で二度、三度と連続して繰り出す。その稲妻のようなジャブを、ホームズは瞬きもせずに、紙一重でかわしてみせた。
 モリアーティが攻撃を止め、用心深くファイティングポーズを取り直した。
「僕が駆け引きだと言った意味が分かっただろう」ホームズが少し得意げに告げた。「君のパンチは、すでに見切ったよ」
 じり、とホームズが前に出た。
「だが君は、まだ一度も僕のパンチを受けていない」
 今度はモリアーティが一歩下がって距離を保った。
「はたして初見で僕の攻撃をかわすことができるかな」
 ホームズは左足を大きく踏み出すと、右のストレートをモリアーティめがけて放った。だがホームズが繰り出したストレートは、速度も切れ味も、モリアーティのジャブに及ばなかった。
 その大振りのパンチをモリアーティは楽々とかわし、一気にホームズの胸元に飛び込んだ。そして伸びきったホームズの右腕をがっちり掴むと、鋭く体をひねった。
 柔道の一本背負いだ!
 モリアーティは躊躇なく、ホームズを手すりの向こう側に投げ飛ばそうとした。
 そんな! ホームズが負けるなんて……。大樹は思わず目を瞑った。
 周囲のどよめきの気配に、おそるおそる目を開けると、二人はまだ手すりの上に立っていた。
 両者ともさっきの姿勢のままだ。ホームズは全身の力を抜いて、モリアーティの背中に体を預けている。にもかかわらずモリアーティはホームズを投げ飛ばすことができずにいた。
「僕に武術を教えてくれた東洋の老師を除けば」ホームズは微笑した。「僕を投げることができた者は、まだ世界に一人もいない」
「……くっ」初めてモリアーティが呻いた。
「そして君はミスを犯した」とホームズが言った。「僕に背後をとられるという、致命的なミスを」
 いつのまにかホームズの右腕がモリアーティの首に巻きつき、左腕ががっちりとその胴に回されていた。モリアーティが腕を振りほどこうともがいたが、びくともしなかった。
 突然、一陣の風が橋の上を吹き渡った。
 同時に日射しがすっと陰り、周囲の空気が変わった。
 大樹の全身がふいに総毛立った。髪が逆立ち、服がパチパチと音を立てる。すさまじい静電気だった。大樹だけでなく、手すりの上のホームズとモリアーティも静電気に包まれていた。ホームズのツイードのジャケットが無数の小さな火花を散らしている。
「そうだ、思い出したぞ」とホームズが呟いた。「ライヘンバッハの滝から落ちる直前にも、僕たちは同じ現象に見舞われた」
 どんどん静電気が強くなり、今やピリピリと肌が痛いほどだった。
「大樹君。君のおかげで、僕は無事に帰還できそうだ。懐かしいベーカー街に」
「ホームズさん!」と大樹は叫んだ。言いたいことはたくさんあるのに、声にならない。
「……くそ、ホームズ」モリアーティ教授が諦めたように、もがくのをやめた。それでも顔をわずかに振り向けて憎まれ口を叩く。「女王陛下の忌々しい忠犬め。それほどあの霧の街が恋しいか」
 ホームズは小さく首を振った。
「僕たちが生きるべき場所は、ここではないんだ、教授」
「ふん」
「大樹君」とホームズが言った。「19世紀に戻ったときには、僕はここで見たことも聞いたことも、すべて忘れているだろう。おそらく君のことも。時を越えて知り合えた友人の顔を忘れてしまうとは……それだけが残念だよ」
 ホームズはモリアーティを抱えたまま、手すりを蹴って空中に飛んだ。
 見物していた人たちから悲鳴が上がった。
 スローモーションを見るように、二人はゆっくりと手すりの向こう側に落ちていった。
 一瞬、呆然と立ちすくんだ大樹は、慌てて手すりに駆け寄った。厚みのある手すりから身を乗り出すようにして、川面を覗き込む。
 ホームズもモリアーティもいなかった。
 大樹の遙か下に、静かな水面だけがあった。小石ひとつ、水面には落ちなかったのだ。
「……消えた。嘘だろ」
「たしかに落ちたよな、あの二人」
 目撃していた人々が騒ぎ出した。
「なんで? もしかしてユーレイとか?」
「救急車、呼ばなくていいのか」
「でも、どこにもいないぜ」
「ありえねーよ」
 皆、呆気にとられたように、顔を見合わせていた。

  Y

「そうか、そうだったのか」
 大樹はその瞬間、天啓のように閃いた。
『最後の事件』でライヘンバッハの滝壺に落ちて行方を絶った後、ホームズが『空家事件』で再びワトスンの前に姿を現したのは1894年だった。どうしてロンドンに戻るのに三年もかかったのか。なぜ無事だったのに、心配しているであろうワトスンやハドスン夫人に手紙ひとつ送らなかったのか。
 その理由は『空家事件』の中で、ホームズ自身がワトスンに説明している。滝に落ちたホームズは、モリアーティとその部下たちの手を逃れてイタリアのフィレンツェに行き、そこからチベットに渡って二年を過ごした後、メッカに立ち寄った。そしてフランスに戻り、なぜか南仏の研究所で何ヶ月もコールタールの研究をしていたという。
 だけど死んだはずのホームズが、チベットでダライ・ラマに面会したり、メッカでカリフと会見したら(ホームズ自身がワトスンにそう語っている)、その驚くべきニュースはイギリスに伝えられて大騒ぎになったはずだ。しかし作中にその形跡はない。なぜか。そんな事実はなかったからだ。
 だとすると、三年ものあいだ、シャーロック・ホームズは何をしていたのか?
 ホームズは何もしなかったのだ。
 聖橋から神田川に落ちる途中で、タイムスリップしたホームズとモリアーティは、元の1891年ではなく、1894年に跳んだのではないだろうか。ホームズの人生から、三年の年月が消えてしまったのだ。
 ホームズは愕然としただろうが、ワトスンに本当のことを打ち明けるわけにもいかず、あのように無理な説明をつけざるを得なかったのだろう。
 煙のように消えてしまった年月……。大樹は昔話の『浦島太郎』を連想した。浦島太郎は竜宮城に行き、夢のような時間を過ごした後、故郷に戻ると数十年の月日が経っていた。もしかすると、浦島太郎は異世界にタイムスリップしたのではないか。そしてタイムスリップした者には、神からペナルティが与えられるとしたら? 時間を飛び越えた者は、時間を失うというペナルティを――。
 浦島太郎が竜宮城で過ごしたのは数日から数週間ほどだろうか。その代償は数十年という時間だった。
 ホームズとモリアーティが21世紀に滞在したのはわずか二時間だ。だから失ったのは三年で済んだのかもしれない。
 気がつくと大樹は聖橋の手すりに頬杖をついて、ぼんやりと考え込んでいた。まずい、こんな姿を友人に見られたら、またからかわれるぞ。
 大樹は苦笑して歩き出した。ここからいちばん近い書店はどこだろうと考える。シャーロック・ホームズの探偵譚を、久しぶりに読みたくなったのだ。

posted by 沢村浩輔 at 23:50| Web小説