もう二、三年前になるだろうか。ある交差点で信号待ちをしていたときの話です。
梅雨が終わって本格的に夏が始まった頃だった。
舗道には私も含めて何人か、信号が青になるのを待っていた。
と、私の横で誰かが話し始めた。
しばらくぼんやりと聞き流していたが、話が途切れたので何となく声の方に目を向けると、一人の男性がこちらを見ていた。
あ、私ですか、という顔で見返すと、男性が、「私ね、これから山口まで歩いて行くんですよ」と言う。
男性は私よりもかなり年上で、六十代の前半くらいだろう。えんじ色のTシャツにリュック姿だったのを覚えている。だけど顔は思い出せない。
「へえ、山口までですか」と、私は言った。
「そうなんです」と男性が答えた。どんな声だったかも思い出せない。
「遠いですね」
「遠いです」
というやりとりをした記憶がある。
わざわざ見ず知らずの私に話しかけた割に、男性には、さあやるぞ、という気負いが感じられなかった。服装も今回の遠征のためにわざわざ買ったのではなく、手持ちの服の中から一番それっぽいものを選びました、という風によく馴染んでいた。
肌も白く、普段からウォーキングをしたり、アウトドアの趣味を持っているようにも見えなかった。
信号が青になったので、私は男性に会釈を送り、頑張ってください的な言葉を口にして別れた。
――とまあ、それだけの話だ。
だが、その後、この交差点で信号待ちをするたびに、そういえば以前、これから山口まで歩いて行くという人に話しかけられたなあ、と思い出す。
交差点の風景が男性の記憶を呼び覚ますらしい。記憶の定着というやつだろうか。
いや、ちょっと違う気もするが、私は山口県に旅行したくなる。
もちろん徒歩ではなく新幹線で、だ。
梅雨が明けるのを待って夏の山口県へ出かけ、錦帯橋や秋吉台の鍾乳洞を見て回り、満足してホテルに戻る道すがら、あのときの男性が話しかけてきたら面白いのに、と思う。
私は偶然の再会に驚き、そして少し訝しむ。
ところが男性は私を覚えていないようだ。
単に話しかけやすい相手を選んだだけなのだろう。大阪でも、山口でも、それがたまたま私だったというわけだ。
男性が言う。「これから大阪まで歩いて行くんですよ」
「遠いですね」と私は相づちをうつ。
「ええ。遠いです」と男性が頷いて言う。
などと想像していると交差点の信号が青に変わった。歩き出した瞬間、私は男性のことを忘れる。
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