2023年03月09日

西暦と元号


元号について、その面倒くさいところと、逆にちょっと良いな、と思う点をまとめてみたい。
多くの人が面倒に感じるのは、書類に日付を記入するときではなかろうか。
今この文章を書き出すまで、私もそう思っていた。
しかし書きながら、あれ、本当にそうかな、と気持ちが揺らぎ始めている。
書類作成時に求められるのは、たいてい誕生日か今日の日付だが、誕生年の元号を忘れる人はさすがにいないだろうし、今年の元号も一瞬、迷うときがあっても、大体すぐに思い出す。
だから日常の書類に関しては、実はそれほど困ることはない。
例外は履歴書だ。
履歴書だけはできれば、もう二度と書きたくないと思っている。
私は元号と西暦の対応表がなければ、恐ろしくて履歴書が書けない。うっかり間違うと知らぬ間に留年していたり、逆に飛び級の天才になりかねない。
履歴書のあらゆる箇所に危険が潜んでいると言っても過言ではないのである。
思うに問題は、一年の途中で元号が切り替わることだ。
こいつが事態を複雑にしている。
たとえば今年は令和五年だ。平成は三十一年までだから、平成二十年は5と11を足して16年前か、と計算すると落とし穴に嵌まる。2019年は平成三十一年であると同時に令和元年だから、正解は16からさらに1を引いて15年前である。
ちなみに私が新人賞をとったのは2007年だが、平成何年だったかを訊かれても答えられない。いま調べたところ、平成19年だった。そうか19年か。覚えておこう。

ところが不思議なことに、私が生まれる前の、自分の人生に直接関係がない時代になると、話は変わってくる。
江戸時代まで遡ってしまうと、元号の変わり目が多すぎてまったく覚えられないので、明治、大正、昭和の前期に限定するが、これらの時代のできごとを西暦で表記すると、いまひとつ味わいに欠けるのはなぜだろう。
たとえば、新橋ー横浜間に鉄道が開通したのは1872年だと聞いても、ふーんと思うだけだが、明治五年と言われると、明治初めの新橋の情景が脳裏にすーっと浮かび上がってくる。(いや、見たことはないので想像だけど)
西暦にはない、元号だけが持つ喚起力であろうか。
私にとって元号は、「遠くにありて思うもの」なのかもしれない。

posted by 沢村浩輔 at 00:46| 備忘録とかメモ