2022年03月29日

白髪についての、その後


以前、このブログで白髪についての疑問を書いたことを覚えておられるだろうか。
その後、新しい発見があったので、メモを残しておく。
 
前回の文章は、頭髪の中にいきなり白髪が出現するのは不思議だ、という趣旨だった。
しかし、あの推測は間違っていた。
先日、私は見つけてしまったのだ。
自分の前髪の中に、半分が白く、半分が黒い、一本の髪の毛を。

それだけなら、わざわざ書き残すまでもないだろう。
だが、この髪の毛は、先端側が白く、根元側が黒かった。
つまり、元々は白髪だったのに、途中で黒髪に戻ったのである。
この事実は、黒髪から白髪へ、あるいは逆に白髪から黒髪へと、髪の色が双方向に変化する場合があることを示している。

なぜ一度は失われた毛根のメラニン生成機能が復活したのか、それは分からない。
だが、ときとして白髪は黒髪に戻るのだ。
毛髪は神秘に満ちている。
正確には毛髪ではなく毛根が。

posted by 沢村浩輔 at 01:28| 備忘録とかメモ

2022年03月10日

本と吸血鬼は日光を嫌う


去年、思い立って自作の本棚を作った。パソコンで図面を作成し、それを木材店に渡してカットしてもらった。
普段はDIYをしないので(本棚を作るために初めて電動ドリルと電動サンダーを買った)、予想以上に時間がかかったが、何とか完成に漕ぎつけた。
実は去年の十二月に完成していたのだが、本棚を入れ替えるのは実に面倒なので、実施を先延ばしにしていた。
その本棚を先日、自室に運び込んだ。
いうまでもなく、本棚の仕上がりは市販品には遠く及ばない。サンダーをかけながらペンキを三度重ね塗りしたが、出来映えはご愛敬だ。
が、設置してみると、天井と本棚の天板の隙間はわずか3mm。計算通りぴたりと収まったので自画自賛の嵐である。「俺って実はDIYの才能があるのかも」と半ば本気で考えている。たぶん次に何か作ったときに、魔法が解けるだろう。

当然ながら、新旧を入れ替えるにあたって、本棚に収めていた本をすべて取り出さねばならない。
その結果、薄々気づきながら目を逸らしてきた不都合な事実と向き合うことになった。
背表紙が色褪せた本が多い、という事実にだ。
すべては私の不徳の致すところであるが、反省を込めて書き残しておく。
蔵書の中でいちばん退色がひどいのはクレイグ・ライスの『スイート・ホーム殺人事件』だった。背表紙の赤色が淡いピンクと化し、白色のタイトルと溶け合ってほぼ判読不能になっている。だが黒色の「HM ラ 2 1」の部分はくっきりと残っている。黒は紫外線に強いことが実証されたわけだ。
高校時代にパステルカラーが綺麗だからという理由で選んだクイーンの国名シリーズも、いつの間にかずいぶん白っぽくなってしまった。引っ越しのたびに大事に持っていったのだが、それが徒になったようだ。日当たりの良い部屋ばかり選んだのがまずかったか……。
大好きなロス・トーマスの『五百万ドルの迷宮』も、帯を外してぎょっとなった。元々はこんなに鮮やかな朱色だったのだ……。
一方、国名シリーズと同じく十代の頃に買ったはずのヴァン・ダインは、白地に黒字の背表紙なので退色しようがなくて無事である。白と黒は長期間の紫外線をものともしないようだ。
だから横溝正史の黒い背表紙は何十年経った今も変わらない。きっと私が死ぬときも黒々としていることだろう。

考えてみれば、上記の本の多くは三十年近く昔に買ったものだ。それを思えば十分に保ったといえる。
問題は私の蔵書の保管の仕方だ。仮にも小説書きなのだから、もうちょっと本の管理に気を遣えよ、のひとことに尽きる。
言い訳は何もない。
私の本たちよ、済まぬ。
それでも、窓から差し込む日射しはいいものだ、と思っている。

posted by 沢村浩輔 at 01:23| 備忘録とかメモ

2022年02月24日

わらべうたの夢


なんだか夢の話ばかり書いている気もしますが……。

ときどき、夢とは自分の無意識が仕組んだ目覚まし時計なのではないか、と思うことがある。
たとえば、こんな夢を見たときに。

時代設定は、たぶん江戸時代辺り。
場所は自分の家と覚しき町屋だ。
私は縁側に座って、足をぶらぶらさせながら、殺風景な庭を眺めている。
先程から誰かが歌う〈かごめかごめ〉が聞こえてくる。
隣家との板塀の向こうで、女の子が手毬をつきながら歌っているのだ。
しばらくぼんやりと聞いているうちに、私はかすかな違和感を覚え始める。
かごめかごめって手毬唄だっけ?
違うような気がするのだが、よく思い出せない。
子供の頃、自分もこの歌で遊んだことがあるはずなのに、その情景がなかなか浮かんでこない。
たしか、手を繋いだ子供たちが向かい合わせになって歌う遊びだっけか……いや、それは花いちもんめだ。
ああ、そうだ、と夢の中の私はようやく思い出す。
両手で目隠しをしてしゃがんだ子供の周りを、みんなが手を繋いでぐるぐる回りながら、この歌を歌うのだ。
歌い終わると同時に子供たちは足を止める。目隠しをしている子供――その子は鬼と呼ばれる――は、自分の真後ろにいる子供の名前を言う。
見事に言い当てたら、今度は当てられた子が鬼になる。
そういう遊びだった。
しかし、板塀の向こうで、そういう遊びが行われている気配はない。
歌っている少女一人しかいないような気がする。
あるいは少女は子守をしていて、背中の赤ん坊をあやすために歌っているのかもしれない。
少女の歌声は優しい響きだった。鞠をつくトントンという音も同じくらい優しい。だから子守をしているのかな、と連想したのだろう。
だが、かごめかごめは、赤ん坊をあやすのにあまり相応しくない。
もうひとつ不思議なことに気づく。
かごめかごめは短い歌である。
ゆっくり歌っても、すぐに終わってしまう。
それなのに、私は少女が歌うかごめかごめを、もうずいぶん長い時間聞いている気がしてならなかった。
最後まで歌い終わって、もう一度始めから歌う、というのではない。
私は縁側で物思いに耽りながら、ぼんやりとカゴメ歌を聞いている。
ふと我に返ったとき、聞こえてくるのは、いつも「かーごーめ、かごめ」とか「いついつでーやーる」とか「よーあーけのばんに」であって、まだ一度も「うしろのしょうめん、だーれ?」という、最後の歌詞を耳にしていない。
ほら、今も少女は「いついつでーやーる」と歌っている。そこはさっきも聞いた。いや、もう何度も聞いている。
もちろん、私が考え事をしているあいだに歌が終わり、また繰り返しているのかもしれない。
だが、そうでない気がした。まだ少女は一度も最後まで歌い終えていないのだ。
何故なのだろうか。
考えれば考えるほど不思議だった。
私は好奇心を抑えきれなくなり、草履に足を入れ、庭を横切って板塀のところに行った。
粗末な板塀には、あちこちに隙間が空いていた。
ちょうど目の高さにあった隙間に顔を押し当て、私は向こう側を覗いてみた。
板塀の向こうも、どこかの屋敷の裏庭のようだった。
庭の真ん中に一人の少女が立っていた。
こちらに背を向けているので顔は分からないが、背格好から、おそらく私と同じ年頃だと思われた。
格子柄の着物は乾いた土の色、帯は湿った土の色だった。
少女は右手でゆっくりと、白と藍と草色の糸で編まれた鞠をついている。
だらりと下げた左手の指と素足のかかとが、あかぎれで痛々しくひび割れていた。
「かーごめ、かごめ」と少女が歌い出した。
歌に合わせて、鞠が少女の手と地面のあいだを弾む。
「かーごのなーかのとーりーは」
少女の周囲には千切れた草花が散乱していた。彼女がついた鞠が、薄紅色の花を何度も押しつぶし、泥だらけの花びらが鞠に貼りつく。
「いついつでーやーる」
少女は少し俯いたまま歌った。どこかもの悲しい声だ。
ふいに私はどきりとした。彼女は、かごめかごめを私に向けて歌っているのではないか、と思ったのだ。
「よーあーけーのばんに」
そうに違いないと確信する。
何故なら私が彼女の後ろにいるからだ。文字通り、後ろの正面だ。
だとしたら……。
「つーるとかーめがすーべった」
この歌が終わったとき、少女は、私の名前を言うだろう。
もし名前を当てられたら、どうなる?
全身がすうっと冷えていく。
決まっている。次は私が鬼になるのだ。
「うしろのしょうめん、だーれ?」

そこで目が覚めた。
たちまち夢は彼方に遠ざかり、現実が私を包み込む。
とりあえずキッチンに行き、熱いお茶を淹れた。
お茶を飲みながら、ぼんやりと想像してみる。
あと数秒、目覚めるのが遅ければ、私は夢から覚めることはなかったかもしれない、と。
今度は私があの裏庭に立ち、背後の板塀から誰かが覗くまで、何年も何十年も、わらべうたを歌い続けることになったかもしれない、と。


posted by 沢村浩輔 at 22:42| 備忘録とかメモ