2023年06月25日

『踊る足跡』


前回から洒落にならぬほど時間が経ちました。〈タイムスリップ・ホームズ〉シリーズの第三話です。
全六話なので、ここが物語の折り返し地点になります。(前回の冒頭で「全五話になる予定」と書きましたが、その後、エピローグ代わりの一編を追加することにしました)
懐かしいロンドンへの道のりはまだ遠いようですが、ホームズもモリアーティも、時空を跳び越えるという未知の現象への分析を独自に重ね、徐々に法則を掴みつつあります。



『踊る足跡 ― Dance or die ―』



 スピリット・オブ・セントルイス号から飛び降りたシャーロック・ホームズとジェイムズ・モリアーティは、ぐんぐん加速しながら濃紺の海面に叩きつけられた。
 ホームズは歯を食いしばり、腕を交差させて顔をかばった。
 だが、覚悟していた激しい痛みはまったく感じなかった。
 着水した瞬間、爆発するように生じた無数の気泡が全身を包み込み、落下時の速度を保ったまま、どこまでも海中に沈んでいく。
 ゴボゴボと沸き立つような水音が、潮が引くように遠ざかり、すべての感覚が眠りに落ちるように消え去った。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。五感がゆっくりと戻って来た。
 最初に感じたのは強い風だった。その次に、両足が踏みしめている、確固たる大地の感覚。
 ジャリ、と靴の裏に砂があたる感触が、三度目のタイムスリップが完了したことを告げた。
 今回の時空旅行は、1893年のライヘンバッハから2019年の東京へ〈跳んだ〉ときよりも、2019年の東京から1917年の大西洋上空へ〈跳んだ〉ときよりも、長い時間を要したように感じられた。
 仮に跳び越える時空の距離と、所要時間の長さが比例しているとすれば……。
 ホームズはゆっくりと目を開けた。
 彼が立っているは、広いが荒涼とした場所だった。
 丈の低い草がまばらに生えている。初めて目にする植物だった。ということは知らない土地だ。
 途切れることなく風が吹いていた。潮の香りがする。海が近いようだ。
 辺りは薄暗いが、空はどこまでも澄み渡り、ほのかに明るかった。夕暮れ時か、それとも夜明け前か。空の色からは判断がつかない。
 ホームズは小さくため息をついた。
「どうやら僕たちはまた、倫敦に戻り損ねたようだ」
 しかし落胆していたのは、ほんの数秒だった。
 現在が西暦何年で、ここがどこなのか。
 そして、この地でどんなできごとが自分たちを待っているのか。
 抑えきれない好奇心が、次々に胸に湧き上がってきた。
 ホームズは周囲を見渡した。
 砂地の上に一対の足跡が点々と続いていた。ひと目でジェイムズ・モリアーティ教授の靴の跡だと分かった。
 だがモリアーティの姿は見えない。
 教授はどこにいる? ホームズは足跡を追って歩き出した。
 風に逆らいながら緩やかな斜面を上がっていく。
 斜面を登り切ると、思わず「ほう」と感嘆の溜め息が出た。
 眼前に、予想を超えて雄大な海原が広がっていたのだ。
 ホームズが立っているのは岬の付け根だった。大きな岬が海面から高く突き出し、南に向かって長く延びていた。
 空は明るく晴れ渡っていたが、強い海風は一瞬たりとも弱まることはなく、見渡す限りの波頭を白く泡立てていた。
 ホームズは前方に、こちらに背を向けて佇んでいるモリアーティを見つけて安堵した。英国が産み落としてしまった悪の化身、宿敵モリアーティをスコットランドヤードに引き渡すことが自分の使命だ。どんな犠牲を払ってでも、彼を1893年の倫敦に連れ戻らねばならない。
 ホームズはそのまま歩を進め、モリアーティの隣に立った。
 荒々しい海の彼方にも大きな岬が見える。距離は数マイルくらいだろうか。
 間違いなく、ここは初めて来た場所だった。
 だがホームズはこの地形を知っていた。書物の中でこの場所を訪れたことがあるのだ。
「どうやら僕たちは」とホームズは言った。「アフリカ大陸南端の喜望峰に立っているようだね」
「……やはり、ケープか」モリアーティが満足そうに呟く。「倫敦から100万マイル離れたアフリカ大陸の南端に辿り着くとは、実に結構な展開だ」
「ここが世界のどこであれ」とホームズは告げた。「僕がいる限り、君の行く先は倫敦の監獄だ、教授」
 モリアーティは軽く微笑んだ。「君に教えておこう。英国のどの監獄にも、私の息がかかった看守がいるということを。彼らはいつでも私の望むときに、監獄の扉を開いてくれるだろう」
「では僕も教えておく。君が収監されたら、私は警視総監に進言して、君の独房を担当する看守を厳選するつもりだ」
 ホームズとモリアーティは黙ったまま睨み合った。
 そのとき、突然の銃声が響き渡った。



 銃声が聞こえた瞬間、二人は片膝をついて低い姿勢をとった。
 すぐに、「遠いな」と呟いてモリアーティが立ち上がる。
 この先は上り坂になっている。銃声は坂の向こうから聞こえた。
 再び銃声が轟いた。坂の向こう側で不穏な事態が起こっていることは確かだった。
「行ってみよう」ホームズは歩き出した。
「どうする気だ、ホームズ?」モリアーティが、からかうように言った。「銃を撃ちまくっている御仁に、最寄りの町への道を訊ねるのか?」
「もっと上手い方法があるなら言うがいい」
 モリアーティは人差し指を銃口に見立てると、ホームズの頭に向けた。「私は、君が頭のおかしい奴に撃ち殺される展開に、千ポンド賭けよう」
「黙りたまえ」ホームズはぴしりと遮ると、足音を立てないように歩を進め、坂の向こう側を覗いてみた。
 岬のふちに銃を構えた男がいた。周囲には誰もおらず、男はこちらに背中をさらして、銃を海に向けていた。
 ホームズは用心しながら男に近づいていった。銃口は沖合の帆船に向けられていた。
 男は帆船に向かって銃を撃ったのだろうか。といっても銃弾が届く距離ではなかった。この岬と帆船の距離はざっと200ヤード(約180M)はあるだろう。
 そもそも、帆船は岬の沖を航行しているのではなかった。帆船のマストはピサの斜塔のように傾き、ビリビリに破れた帆の残骸が、強い潮風になぶられている。船は座礁していた。喜望峰の周囲の海域は、遭難が多発することで知られている。
 ホームズの靴の下で小石が音を立て、男が素早く振り返った。銃口がホームズの胸にぴたりと据えられた。フリントロック式のマスケット銃だ。
「止まれ!」男が発したのは英語だった。
「やあ」とホームズは愛想よく言いながら、素早く男の風貌を観察した。年齢は三十歳くらいか。ずる賢そうな目をしている。日光と潮風でボロボロになった髪と、赤銅色に焼けた肌。体つきは逞しい。難破してまだ日が浅い帆船と、町から遠く離れた岬にいる男。彼があの難破船の水夫だと推理するのは簡単だった。
 次は時代だ。難破船の船形と艤装のデザインは17世紀の後半から18世紀の前半のものだ。そして男の服装と銃の形も、同じく17世紀の特徴を備えている。だとすれば――。
「おはよう。いい天気だね」
 ホームズは以前、犯罪捜査のために17世紀の英国の文献を読み込んだときに覚えた古い英語で話しかけてみた。
「あんたもイギリス人か?」と男が訊ねてきた。
「そう、僕たちは君と同じ英国人だ」ホームズはちらりとモリアーティを見た。教授がわずかに頷く。彼も三百年前の英語が分かるのだ。まったく、悪党にしておくには勿体ない頭脳だ。「銃を撃っていましたね?」
 男は銃の引き金に指をかけたまま、しばらく黙っていた。
「……それが、どうした」
「なぜ、難破船に向かって銃を撃ったのですか?」
「それは違うな」と男は首を振った。「俺は船を撃ったわけじゃない」
「では何を撃ったのです?」
「知りたいのか?」
 ホームズは真面目な顔で頷いた。「ええ。ぜひ」
「……いいだろう」男はゆっくりと言った。引き金から指を離し、銃座を杖のように地面についた。
「ならば教えてやる。オールドグレー号のマストのてっぺんを見てみな」
 座礁した船はオールドグレー号というらしい。ホームズは座礁船に目を凝らした。メインマストの先に一羽の鴉がとまっていた。陽光の中に闇の一部が溶け出したかのような、漆黒の鴉だった。
「鴉がいますね」
「そうだ。俺はあのクソ鴉に向かって銃を撃った」
「あの鴉に恨みでもあるのですか?」
「あるとも。奴はオールドグレー号の疫病神だ」
「疫病神?」とは穏やかではない。
「そうだ。あいつが来てから、船のあちこちでおかしなことが起こり始めた。俺は船長に何度も奴を追い払うように言ったんだが、船長は下っ端の俺の言うことなんざ聞きやしねえ……。その結果が、このざまだ」
「まるで鴉のせいで座礁したように聞こえますね」
「そう言ってんだよ」
 ホームズが思わず苦笑すると、
「嘘じゃねえ。その証拠に、浜を見ろ」
 男が顎をしゃくり、三人が立っている場所から急な斜面を下りた先に広がる砂浜を示した。
 砂浜には一対の足跡が残っていた。
 それは奇妙な足跡だった。足跡はまるで浜辺で踊ったかのように、あるいは酔っ払いのように、砂の上をあっちへ行き、こっちへ戻り、そして波打ち際に消えていた。
「足跡の主は、海に入っていき、戻って来なかったようですね」
「……ああ」男が小さな声で応じた。「溺れて死んじまった」
「自殺ですか」
「違う! 鴉の呪いだ」男は吐き捨てた。「みんなあいつに殺された。鴉の呪いにかかってコウリッジは死んだんだ」
 そんな馬鹿な、という言葉を飲み込んで、ホームズは視線を船に向けた。鴉はマストの上から、こちらをじっと伺っていた。
「あなたは、あの船に乗っていたのですね」
「ああ。俺はオールドグレー号の船乗りだった」
「死んだ男も?」
「そうだ。俺たちは何年も一緒に働いていた」
「他の乗組員はどうなったのですか?」
「俺たち以外、全員死んだ」
「俺たち、というと?」
「俺と、ジンジャーと、コウリッジだ。コウリッジは死んじまったがな」
「オールドグレー号が座礁したのはいつです?」
「四日前だ」
「皆死んでしまったのに、なぜケープタウンに向かわずに、ここに留まっているのですか?」
「うるせえぞ」押し殺した声と共に、ホームズの脇腹に銃が押しつけられた。「お前の知ったことじゃない。黙ってろ」
 どうやらホームズの言葉は痛いところを突いたようだ。
「お前たちこそ、こんな場所で何をしている?」男が逆に訊ねてきた。「遭難したのか? 二人ともずいぶん髭が伸びているぞ。最後に飯を食ったのはいつだ? もう長いあいだベッドで寝ていないんじゃないのか?」
 ホームズはあごを撫でて、ざらりとした感触に顔をしかめた。遭難したわけではないが、男の言葉が当たらずといえども遠からずなのは事実だ。
「俺に言わせりゃ、あんたらの方がよっぽど怪しいぜ。そもそも……」男はふいに言葉を切ると、急に愛想良くなった。「まあ、喧嘩はよそう。その様子じゃ道に迷って途方に暮れてる感じだな。それに今夜の宿のあてもない。そうだろ?」
 男は自分の言葉が相手に染みこむのを待った。
「俺と一緒に来れば、温かい飯とベッドを提供するよ。ただし、頼みがある」
 ホームズは肩をすくめた。男の頼みが何かは想像がつく。
「あの鴉を殺すのに手を貸してくれ」と男が言った。「それが条件だ」
 ホームズはモリアーティに訊ねた。「教授、君の意見は?」
「私はどちらでもいい。一晩中、風に吹かれながら草の上で眠るのも一興だ」
 ホームズはその選択肢を検討してみた。おそらく一睡もできないだろう。そして間違いなく風邪をひく。ならば仕方あるまい。
「自己紹介がまだだったね」とホームズは男に言った。「私はシャーロック・ホームズ。彼はジェイムズ・モリアーティだ」
「俺はメリル・アンバーだ」
 アンバーはにっと微笑んだ。ホームズは儀礼的に、そしてモリアーティは仏頂面で、アンバーと握手を交わした。
「いいだろう」ホームズは頷いた。「その条件を呑もう」



「よし決まりだ。ついてこい」
 アンバーは、先に立って歩き出した。
「ここから十分ほどの場所に廃屋がある。俺たちはそこで寝泊まりしてる」
「最初に喜望峰を見つけたポルトガル人がつくった建物だろう」とホームズは言った。「だが、こんな荒野に人が長く暮らすのは無理だ。維持できずにうち捨てられたのだ」
「たしかに人が住む場所じゃない」とアンバーも言った。「実際、ひでえ建物だ。だから暖かい暖炉やフカフカのベッドなんざ期待するなよ。まだ建ってるのが不思議なくらいの代物だからな。雨漏りはするし、隙間風もひどい。だけど鼠が走り回る狭い船倉で寝ていた俺たちからすりゃ、素晴らしいお屋敷だ」
「それは楽しみだ」そっけなくモリアーティが言った。
 道なき荒れ地を進んでいくと、アンバーが言ったとおりの廃屋が見えてきた。屋根のあちこちに穴が開き、正面の玄関扉もなくなっている。長年、潮風にさらされた外壁は、爪を立てたらボロボロと崩れそうだ。
「ジンジャー、ちょっと来てくれ!」戸口に立ってアンバーが呼びかけた。
 薄暗い建物の中からアンバーと同じ年頃の男が姿を見せた。鼻の頭が赤く目が濁っている。一目で健康を害しているのが分かる。相当な酒好きのようだ。
「遅かったじゃないか、何をしてた……」アンバーの後から入ってきた二人を見て、ジンジャーがぎょっとなった。「なんだ、そいつらは?」
「岬で会ったんだ。それより悪い知らせがある」アンバーが低い声で告げた。「コウリッジが死んだぞ」
「……死んだ?」ジンジャーは驚いたようだった。「なぜだ?」
「ふらふらと海に入っていって、溺れちまったんだ」
「溺れた? そんな馬鹿な……」
「ああ、常識では考えられん。だが、この目で見たんだから間違いない」アンバーが後ろを振り返った。「そうだろ、お二人さん?」
「私たちはその男を見ていない」モリアーティが冷たく否定した。「しかし砂浜に、波打ち際まで続いている足跡があったのは事実だ」
「……なんてこった」ジンジャーが天井を仰いだ。「これでフレドリック号の生き残りは、お前と俺だけになっちまった」
「ふん、少ない方が好都合じゃねえか」アンバーが不敵に笑った。「そうだろ?」
 ジンジャーもつられたように笑ったが、すぐに表情を曇らせた。
「だけど……。あの鴉がいる限り、どうにもならないぞ」
「分かってる。だからこの紳士たちを連れてきたんだ」アンバーが親指を向けながら紹介した。「ホームズとモリアーティだ。鴉退治を手伝ってもらうことになった」
「冗談だろ、アンバー」ジンジャーが顔をしかめる。「どこの誰だか分からない奴を信じるのか?」
「そう邪険にしないでくれたまえ。僕たちも君と同じ英国人だ」ホームズは柔らかい口調で言った。「わけあって世界を旅しているのだが、ここで会ったのも何かの縁だ。及ばずながら力になろう」
「だけど、どうやって鴉を殺すんだよ?」ジンジャーが渋々訊いた。
「心配するな、ちゃんと考えてある」アンバーが自信たっぷりに言った。「さあ、飯にしようぜ。ぼんやり突っ立ってないで、さっさと支度をしろ、ジンジャー」


 どれほど酷い食事が出てくることか、ホームズは内心覚悟していたが、ジンジャーが手際よく作った魚介類のスープは予想よりも美味しかった。もちろん空腹という最高の調味料のおかげもあったろうが、モリアーティも文句を言わずにスープを口に運んでいる。
「あの船で生き残ったのは、三人だけだと言ったね?」ホームズは訊いた。
「ああ」とアンバーが頷く。
「それは解せないな。船が座礁した場所から浜までは、せいぜい二百ヤードだ。船が沈没する恐れはなかったのだから、もし海が荒れていたとしても、天候の回復を待って避難すれば、岬までたどり着くのは難しくなかったはずだ。それなのに、なぜ皆死んでしまったんだ?」
 ホームズの指摘に、アンバーが口ごもった。
「……ちょっとばかり、込み入った事情があるんだ」
「僕たちの協力を得たいのなら、その事情とやらを話してもらう必要がある」ホームズはきっぱりと言った。
「ちっ、分かったよ。話してやる」
 ジンジャーに素早く目配せをすると、アンバーは言った。
「すべては、あの鴉のせいだ。奴が船を座礁させたんだ」
「それを信じろと?」
「嘘じゃねえ。いいか。喜望峰の沖が航海の難所だってことは、どんな船乗りも知っている。もちろん俺たちもな。だからこの海域を通るときは全員が細心の注意を払う。なのに座礁しちまった。鴉がおかしな魔術を使ったんだ。そうでなきゃ、絶対に座礁なんかしない」
 ホームズは足を組み、アンバーの顔を見つめた。
「では君の言う通り、鴉が何らかの不可解な力を使って船を座礁させたとしよう。仮にそうだとしても、乗組員は船から脱出できたと思うが」
「だから鴉のしわざだって言ってるだろ! 俺たちがボートに分乗して、浜を目指して漕ぎ出した途端、急に海が荒れ出したんだ。ほとんどのボートが横波をくらって転覆しちまった。俺たちが助かったのは……ただ、運が良かったんだ」
「なるほど。それなら、なぜ君たちはここに留まってるんだ?」とホームズは訊ねた。「せっかく命拾いしたのだから一刻も早く立ち去るべきだろう。幸い、鴉は陸地までは追いかけては来ないようだし」
「冗談じゃない!」アンバーが叫んだ。「奴は船を座礁させ、仲間を殺したんだぞ。おめおめと逃げ帰れると思うか?」
「そうだとも」とジンジャーも頷く。「仲間を見捨てて帰れるもんか」
「実に立派な心がけだ」ホームズは肩をすくめ、モリアーティを見た。「君から訊きたいことは?」
「オールドグレー号とあの鴉は、どういう関わりがある?」
「半年ほど前に」とアンバーが答えた。「北アフリカの港で天候が良くなるのを待っていたとき、水夫の一人が怪我をしている鴉の子供を見つけて船に持ち帰ったんだ。不憫に思った船長が大事に育てたのに、その恩を仇で返しやがった」
「厄災というのは、人の親切心につけ込んで近づいてくるものだ」モリアーティが言った。
「まったくだ。こうなると分かっていたら、港の片隅で震えていた奴を踏みつぶしてやったのに」
「大体の経緯は分かった」モリアーティが言った。「そろそろ鴉を殺す具体的な計画を聞かせてもらおうか」


「よし、俺の考えを話そう」アンバーは、皆の顔を順番に眺めながら計画を語った。「あの忌々しい鴉は縄張りを持っている。オールドグレー号とその周囲の海だ。奴がこちら側――陸地までやって来ることはない」
「君たちを警戒して?」とホームズは訊いた。
「そうだ」とアンバーが頷く。「奴は俺たちが銃を持っていることを知っている。だから射程距離には絶対に入らない」
「銃の射程距離は?」とモリアーティが確認する。
「50ヤード(約46メートル)だ」
「当然、200ヤード沖の難破船まで弾は届かない」
「その通りだ」
「だとすると、こちらから出向くしかないな」
「そういうことだ。浜には俺たちがフレドリック号から脱出するときに使ったボートが引き上げてある」とアンバーが言った。「問題は、誰かがボートでフレデリック号に近づくのを、奴が黙って見ているわけじゃないってことだ」
「試したことはあるのか」
「もちろん、ある」
「どうなった?」
「俺とジンジャーで、ボートで船に近づこうと試みたことがある。奴は俺たちが近づくのをフレデリック号のマストの上から黙って見ていた。そして俺たちが沖に100ヤードほど漕ぎ出して、簡単に引き返せなくなったところで、突然襲いかかってきやがった」
「くちばしで突かれたのか?」
「いや、爪だ。もちろん俺たちもオールを振り回して反撃した。だが奴はオールが届かない高さから急降下して鋭い爪で俺たちを引っ掻き、すぐさま急上昇する戦法で俺とジンジャーを傷だらけにした」
「なぜ銃を使わない?」モリアーティが訊ねる。
「そいつは陸の人間の発想だ。あんたは荒れた海に小さなボートで乗り出したことがないんだろう。木の葉のように揺れるボートから飛び回る鳥を撃ち落とすなんざ、百万に一つの偶然が起こらない限り不可能なんだよ。その前にこっちが忌々しい爪でずたずたにされちまう」
「しかし、鴉が陸地に近づかない以上、こちらが出向くより他に手段はないと思うが」とホームズは言った。
「その通りだ。だからあんたらに頼んでる」
「我々なら、鴉は攻撃してこないと思うのか?」ホームズが訊ねた。
「いや。鴉は船に近づくすべての人間を襲うだろう」
「僕とモリアーティに、囮になれと?」
「察しがいいな。具体的な作戦はこうだ」
 とアンバーは身を乗り出した。
「あんたらは明日の夜明けと共に、ボートに乗ってオールドグレー号に向かうんだ。俺とジンジャーは銃を持って、鴉に見つからないように岩陰に隠れている。近づいてくるボートを見つけた鴉は、ボートを攻撃してくるだろう。そうしたら退却してくれ」
「反撃せずにか」とモリアーティが訊く。
「基本的には何もしなくていい。ただ、鴉が船に引き返しちまわないように適当に挑発してくれ。あんたらの役目は、鴉を俺の銃の射程範囲に誘い込むことだからな。
 その先は言うまでもないな。奴が50ヤード以内に入ったら、俺が撃ち殺す。めでたし、めでたしだ。な、簡単だろ?」
「その計画を成功させるためには」モリアーティが不機嫌に訊ねる。「鴉を一撃で仕留める必要があるが、自信はあるんだろうな? もし撃ち損なったら、鴉は飛び去って二度と誘いに乗らなくなるぞ」
「自信? もちろん、あるさ」アンバーが上機嫌で言った。「ふん、信用できない、って顔だな。いいだろう。俺の銃の腕を実際に見せてやるから、自分の目で確かめろ。ついて来い」
 アンバーは、ホームズたちを廃屋の裏手に連れ出した。
 大きな岩が幾つも転がっている、荒涼とした場所だ。
「あの岩の上に小石が3つ重なってるだろ。あれが的だ。ジンジャー、銃の準備をしろ」
 そう命じると、アンバーは岩から50ヤード離れた場所に立った。
 ジンジャーがマスケット銃に弾を込めてアンバーに手渡した。
「よく見ておけよ」
 素早く狙いをつけて、アンバーが無造作に引き金を引くと、小石がぱっとはじけ飛んだ。
「どうだ?」アンバーが得意げにモリアーティを見た。
「なるほど。言うだけのことはある」モリアーティも納得したようだ。「あんたは水夫より、猟師になった方が良かったんじゃないか」
「ダメだね」アンバーがにやりとして言い返した。「猟師になったら、世界中を廻ることができねえだろ」



「明日は夜明け前に行動開始だ。今夜はこの部屋でゆっくり休んでくれ」
 アンバーに案内されたのは、床が土埃で覆われ、あちこちに蜘蛛の巣が垂れ下がった、幽霊だって逃げだしたくなるような酷い部屋だった。
「おい、他にも部屋があるだろう?」モリアーティが不快そうに唸った。
「あるさ。だけど他の部屋は隙間風がひどくて、雨漏りがするんだ」アンバーが口ぶりだけは申し訳なさそうに言った。「これでも、ここが一番上等な部屋だ」
「分かった」ホームズはあっさり引き下がった。「どうも僕たちは異国の地に滞在しているのに、自宅と同等の快適さを求める悪い癖があるようだ。気を悪くしないでくれ」
「いいさ」アンバーも鷹揚に頷いた、「別に気にしちゃいねえよ」
「ありがとう。では失礼する」
 ホームズは感謝の言葉を述べながらドアを閉めた。
「ずいぶん聞き分けがいいんだな」とモリアーティがからかった。
「時間を無駄にしたくないだけだ」
 ホームズは素っ気なく言い返すと、腕組みをして壁にもたれた。モリアーティはベッドの残骸に腰を下ろした。
「僕の観察によれば、この屋敷には五つの部屋が存在する」とホームズは言った。「アンバーとジンジャーがそれぞれ一部屋ずつ。一部屋は壁が崩れて使い物にならない。そして我々に提供された愛すべきこの部屋がひとつ。そこから分かることがある」
「残る一部屋は、死んだコウリッジの居室だった」モリアーティが言った。
「その通りだ」
「アンバーはその部屋を私たちに使わせたくなかったようだな」
「だとすれば、ぜひ」ホームズは微笑した。「コウリッジの部屋を訪れなきゃいけないね」
「あの二人が眠るのを待って行ってみるか」
「そうしよう」ホームズは言った。「とはいえ、この陰気な部屋で夜を待つのは気が滅入る。少し外を歩かないか?」
「よかろう」モリアーティが立ち上がった。
 屋敷を出ると、さっきよりも風は冷たくなっていたが、荒々しくも雄大な自然の中に身を置くと、ホームズは気分が軽くなった。
 どちらからともなく、岬の先端に向かって歩き出す。
「モリアーティ、君は彼らの話をどう思う?」
 前を向いたままホームズは訊いた。
「あの二人が何かを隠しているのは間違いない」モリアーティも前を見たまま答えた。「難破船には、値打ちのあるお宝が残されているんだろう。連中はそれを手に入れたいのだ」
「君が彼らに協力するのは」ホームズが訊いた。「財宝を横取りするためか?」
「違う。私は難破船の宝物になど興味はない」
「ならば、なぜ?」
 しばらくのあいだ、モリアーティは黙って歩いた。それから陰気な声で話し始めた。
「私はこの数日間、考えてきた。私と君を翻弄しているこの現象について。そして東京の若者が言った〈タイムスリップ〉とはどういう性質なのかを」
 ホームズは強い興味を持って耳を傾けた。
「我々はこれまでに三度のタイムスリップを経験した。最初はスイスのライヘンバッハの滝だ。二度目は日本のカンダガワ・リバーの橋の上で。三度目は正確な位置は分からぬが、大西洋の真ん中だった。
 そして今、私たちはアフリカ大陸南端の喜望峰、大西洋とインド洋がぶつかる場所にいる」
「そうだな」ホームズは大海原を見つめた。
「一度目は五里霧中だった。二度目も状況を把握するには情報が不足していた。だが三度目を経験した今は、ある程度の分析を行うことができる。三度すべてに共通している条件は高さと場所だ。
 タイムスリップは、我々が高い場所にいるとき、そして水の上にいるとき、この二つの条件が重なったときにのみ起こっている」
「同感だ」ホームズも異論はなかった。
「では、その条件を満たせばタイムスリップが生じるのか? そうかもしれない。だが私は他にも条件があるような気がするのだ。ホームズ、君はどう思う?」
 今度はホームズが黙考する番だった。
 モリアーティが言った通り、これまでタイムスリップが起きたのは、すべて水がある場所だ。
 より正確に言えば、〈水に向かって落ちた〉ときにタイムスリップが起こっている。
 そしてタイムスリップが起こる前には、辺りの大気が静電気を帯びたように火花を散らして明るくなった。
 これまでの経緯から考えると、今回は喜望峰から海に向かってジャンプすることになるのかもしれない。
 だが――。
 それならば、このまま岬の先端まで歩いて行き、海に向かって跳べばタイムスリップが起こるはずだが、そういうルールなのだろうか?
 いや、たぶん違う気がする。
「きっと」とホームズは言った。「僕たちは、何かをしなければならないんだ」
 モリアーティが静かに続きを待っている。
「僕たちは21世紀のトウキョウで一人の若者と出会い、言葉を交わす機会を得た。彼は我々が理解できずにいたタイムスリップという現象に、未来の知識を使って説明をつけてくれた。のみならずタイムスリップの発生条件について重要な示唆を与えてくれた。おかげで僕たちは再び、タイムスリップに成功した。自分の仮説が正しかったことが証明できて、彼も満足したはずだ。
 次に出会った飛行機乗りの青年もそうだ。もし僕たちに出会わなければ、彼は疲労で眠り込んで墜落してしまったかもしれない。しかし大西洋のど真ん中で空から降ってきた人間を救うという希有な経験が、彼の眠気を吹き飛ばした。彼は見事に大記録を達成したことだろう。
 つまり僕たちは、タイムスリップした場所で出会った相手に、何かを与えなければならない。それが善事か悪事かを問わず、関わりを持った相手を満足させる。その課題を達成しない限り、先に進めないルールになっているのかもしれない」
「その理屈が正しいとすれば」モリアーティはにやりと笑った。「あの水夫どもの鴉退治に協力しなければ、先には進めないということになる」


 話しながら進むうちに、初めてアンバーと出会った場所に来た。二人は斜面を下り、波打ち際まで歩いた。
 砂の上にはまだコウリッジの足跡が残っていた。
 沖合には、夕陽を浴びたオールドグレー号が、少し傾いたまま座礁している。青空に向かって突き立つメインマストの先端に、あの大鴉がとまってこちらをじっと見ていた。
 踊っているとしか思えない足跡を、ホームズはじっくりと観察した。
「たしかに、この足跡の主は恐怖に駆られていたようだな」とモリアーティが言った。
「同感だ」ホームズも頷いた。「だが、コウリッジを恐怖に陥れたのは、鴉の呪いなどではない」
「ほう」
「もっと現実的な恐怖だ」とホームズは断言した。「そして気の毒なコウリッジが何に対して恐怖したのか、その理由も推測がついている」
 ホームズは足跡のそばに片膝をつくと、コウリッジが乱した砂の表面に顔を近づけた。
「うむ。やはり、思った通りだ」
 顔を上げて、モリアーティを振り返る。
「これを見たまえ、教授」探偵は砂の一点を指さした。
 モリアーティも素直に、ホームズの傍らに膝をついた。「何を見つけた、名探偵?」
「コウリッジの足跡は、右に左にフラフラとよろけながら海まで続いている。しかしよく観察すると、コウリッジが向きを変えたところには、必ず近くに砂が爆ぜたような跡がついている。ほら、ここだ」
 ホームズはそう言いながら、砂が爆ぜた跡を指で掘り返した。
 ほどなくホームズは、指を引き抜いてモリアーティに見せた。砂まみれの銃弾だった。
「これを見れば、何があったのか説明するまでもないだろう」ホームズは背後を振り返った。「岬の上からコウリッジを撃った者がいるのだ。だが狙撃手はコウリッジの体ではなく、わざと足元に弾を撃ち込んで、彼を海へと追いやったのだ。そしてコウリッジを溺れさせた」
「やったのは、もちろんアンバーだな。だが、なぜ、そんな面倒なことを?」
「コウリッジが自ら海に入って死んだとジンジャーに思わせるためだ」
「その証拠として、この足跡が必要だったんだな」
「そういうことだ」
「すると、私たちが聞いた銃声がそうだったのか」とモリアーティが呟く。「アンバーはあのとき、鴉ではなく仲間に向けて銃を撃っていたんだな」
「だが、ひとつ奇妙な点がある」ホームズは立ち上がって膝の砂を払った。
「奇妙な点?」
「コウリッジの足元に撃ち込まれた銃弾の跡は三箇所だ。アンバーは三回銃を撃ったわけだ。……だけど不思議じゃないか」ホームズは面白そうに言った。「どうして僕は銃声を二度しか聞かなかったのだろう」



 部屋に戻った二人は、それぞれ考え事をして時間をつぶした。モリアーティは巨大な恒星が周囲に及ぼす重力の影響についての草稿を練り、ホームズは水槽の中に一滴だけ混じった血液から犯人の手がかりを突き止める方法を十七通り思いつき、そこから候補を三つに絞り込んだ。
 二人はトイレに立ったとき以外は、考察に熱中して時が経つのも忘れ、我に返ったときには、いつのまにか日付が変わり、時刻は真夜中になろうとしていた。
「もう、こんな時間か」ホームズは少し慌てて、モリアーティに声をかけた。「真夜中の探索にでかけよう、教授」
「うむ」モリアーティも手帳を閉じて、胸ポケットに仕舞った。
 ホームズは灯を点したランタンを片手に、ドアを細く開けて廊下の様子を窺う。そして足音を忍ばせて廊下に出た。モリアーティがその後に続く。
「コウリッジの部屋は分かっているんだろうな?」
「もちろんだとも」
 数時間前に館の中を案内されたときの記憶を反芻しながら、二人は静まり返った廊下を歩いて行く。
 アンバーの部屋の前で立ち止まり、ドア越しに中の気配を探った。室内から小さく鼾が漏れてくる。
「きっとお宝に囲まれている夢でも見ているのだろう」モリアーティが囁いた。
 ふたたび廊下を進み、ジンジャーの部屋の前に立った。アンバーとは違う種類の鼾が聞こえてきた。アンバーもジンジャーもよく眠っているようだ。
 これなら邪魔が入る恐れはない。ホームズとモリアーティは頷き合うと、コウリッジが使っていた部屋へ向かった。
 目指す部屋は屋敷のいちばん奥にあった。二人は音を立てぬよう中に入り、そっとドアを閉めた。
「ここで何かが見つかると思うのか?」モリアーティが室内を見回しながら訊いた。
「アンバーが僕たちに語った物語には、重要な事実が省かれている」カンテラの灯りであちこちを照らしながら、ホームズは答えた。「この部屋のどこかに、その欠落を埋めるものがあるかもしれない」
「欠落とは、何だ?」
「アンバーの話によれば、数ヶ月前にオールドグレー号が北アフリカに寄港したとき、船員の誰かが鴉の赤ん坊を見つけて船に連れ帰った。そうだったね?」
「ああ、そう言っていたな」
「つまり、数ヶ月のあいだ、鴉と乗組員は仲良く暮らしていたわけだ。ところが今や、鴉と船員はお互いを激しく憎み合っている。そうなった理由があるはずだ」
「船が座礁したことが、原因じゃないのか」
「いや、船が動けなくなったからといって、鴉が船員を憎むようになるとは思えない」とホームズは言った。
「お前は、その理由に想像がついているのか?」
「想像なら、ついている」
「勿体をつけるのがお前の悪癖だぞ、ホームズ」とモリアーティが言った。「私はワトスンほど我慢強くないんだ。さっさと結論を話したまえ」
「僕はね、少し憤慨しているんだよ、教授」ホームズはゆっくり首を振った。「仲間が死んだというのに、アンバーもジンジャーも、まったく悲しむ様子がない」
 モリアーティが肩をすくめた。「別に珍しいことじゃないさ」
「だけど不思議じゃないか。アンバーとジンジャーは、オールドグレー号から逃げ出すときにコウリッジを連れていった。アンバーとジンジャーが一緒に逃げたのは理解できる。オールドグレー号で働いていたときから二人は仲が良かったのだろう。アンバーが兄貴分でジンジャーが弟分だ。しかしコウリッジはそういう間柄ではなかったようだ」
「それなら、なぜコウリッジを連れて逃げたんだ?」
「教授、君は水夫たちがここに留まっている理由は、難破船に残された財宝だと言ったね? 僕も同じ意見だ。財宝は頑丈な宝箱に保管されており、宝箱の鍵は船長が持っていたはずだ」
「だろうな」
「しかし宝箱の持ち主である船長は死んだ。問題は、宝箱の鍵の行方だ」
「もしアンバーが鍵を手に入れていたら」とモリアーティが言った。「コウリッジを連れて逃げる理由はない……か」
 ホームズは頷く。「コウリッジは鍵を持っていたか、あるいは鍵の保管場所を知っていたんだ。だからアンバーは彼を自分のボートに乗せた。そう考えれば説明がつく」
「それはどうかな」とモリアーティが疑問を呈した。「仮にコウリッジが一介の水夫ではなく、地位の高い副船長や航海士だったとしても、船長が大事な鍵の保管場所を打ち明けるとは思えないが」
「そこが僕にも分からないのだが……おや? ベッドの裏側に何か隠してある」
 ホームズは腕を伸ばし、ベッドの奥から何かを引きずり出した。使い込まれた革製の鞄だった。
「見たまえ、教授。包帯に鋏だ。消毒薬代わりのジンもある。コウリッジは船医だったようだ。それなら船長とも親しいだろう。どれほど部下に冷酷な船長でも、医者は大切にするだろうからね」
 鞄の底には、一冊の日記が入っていた。
「いいぞ。彼は日々の記録を残していたんだ。これを読めばオールドグレー号に何があったのか分かるかもしれない」
 ホームズはテーブルの上にカンテラを置き、日記を広げた。そして最後の日付に書かれた記録に目を通した。

----------

(173X年7月13日)
 時刻は今、午前十二時を過ぎたところだ。まもなく私はこのあばら屋を出ていく。だがその前に、オールドグレー号に何が起こったのか、事実を残らずここに書き残しておく。
 まず最初にはっきりと述べておくが、本当はコクラン船長の遺体をきちんと埋葬したかった。だが今は自分の身を守ることで精一杯だ。コクラン船長、あなたを船内に置き去りにして立ち去った私を、どうか許してほしい。
 オールドグレー号の座礁は、我々自身が招いた厄災だった。
 コクラン船長は厳しい人だった。船員のミスや怠惰を許さず、慣例よりも重い罰を与える人だった。私の目から見ても厳し過ぎるところはあった。そのために船長は多くの船員に恨まれた。しかし、彼が厳しい規律を強いていたからこそ、オールドグレー号はこれまで無事に航海を続けてこられたのだ。
 私は三ヵ月ほど前から、一部の船員たちが不穏な動きを始めていることに気づいていた。
 首謀者はアンバーだ。彼は二度も職務怠慢の罪でむち打ちの刑を受けていた。だが、それは船長の横暴ではなく、彼の狡猾さと暴力性が、周囲の船員たちに迷惑を掛けることが甚だしかったためだ。
 背中に数十回の鞭を受けたアンバーは、涙を流して許しを請い、反省の言葉を口にした。船長はその言葉を信じたようだった。しかし私が彼をうつぶせに寝かせて傷の手当てをしているあいだじゅう、彼は顔にどす黒い怒りの色を浮かべ、小声で呪いの言葉を吐き続けていた。
 私は船長に、アンバーに気をつけるよう忠告した。船長は分かったと頷き、アンバーの言動を観察した。むち打ちの後、アンバーは人が変わったように真面目に仕事をするようになった。船長は彼の改心ぶりに満足し、私に向かって「君の考えすぎだよ」と言った。
 だが、いま思い返せば、アンバーは秘かに報復の準備を進めていたのだ。船長に不満を持つ船員たちを仲間に引き入れ、反乱の機会を狙っていたのだと思う。
 表面上は何事もなく時が過ぎ、やがてオールドグレー号はアフリカ大陸の南端に差し掛かった。
 喜望峰。世界中の海でもっとも危険な海域のひとつだ。
 夕刻近く、雨が降り出し、波がますます高くなった。多くの船が難破してきた場所だ。みるみる船内の空気が緊張が帯びていく。
 そのとき、近くで鴉が鳴いた。振り返るといつのまにかすぐ傍に鴉がいて、私をじっと見つめていた。そして何かを訴えるようにガアと鳴いた。
「どうした、腹が減ったか」と私は話しかけた。「もう少し我慢してくれ。この海域を過ぎたら、餌を食わせてやるから」
 鴉は羽を広げ、またガアと鳴いた。何かを伝えようとしているように思えた。
 と、どこかで誰かの怒鳴り声が聞こえた。言い争いをするように、複数の人間が怒鳴り合っていた。
 私は胸騒ぎがして声がする方に走った。
 ああ……。ここから先のできごとは書きたくない。だが誰かが記録しておかねばなるまい。
 雨が降りしきる甲板で、興奮した船員たちが、ある者は雄叫びを上げ、ある者は拳を突き上げ、ある者は激しく床を踏み鳴らしていた。
 船員たちは仁王立ちになったアンバーと、彼の前に跪いたコクラン船長を取り囲んでいた。
 船長は鼻から血を流し、服のあちこちが破れていた。おそらく船長室になだれ込んだアンバーと彼の賛同者たちが、コクラン船長を力づくで甲板に引きずり出したのだろう。
 アンバーは手にしたナイフを高々と掲げた。
「それでは、これから皆に訊ねる。コクランを船長として認めるか。それとも認めないか。認める者は拍手を!」
 辺りは静まり返った。私は力を込めて手を叩いた。悲しいほど疎らな拍手が私に続いた。
「よろしい。では、コクランを船長と認めない者は、拍手を!」
 盛大な拍手と歓声が沸き上がった。
「決まりだな。多数決によって、お前は船長でなくなった」アンバーは、コクラン船長の頭から船長帽を奪い取った。そして皆を見渡した。「じゃあ次に、新しい船長を誰にするか決めよう。もしみんなが俺を船長と認めてくれたら、コクランが独り占めしてきたお宝を、ここにいる全員に分け与えるつもりだ」
「本当か?」船員たちがどよめいた。
「ああ。約束する」アンバーが声を張り上げた。「さあ、俺が船長にふさわしいと思う者は、大きな拍手を!」
 割れんばかりの拍手が、しばらく鳴り止まなかった。
「ありがとう、みんな!」アンバーが船長帽を自分の頭に乗せた。「俺はコクランとは違う。いい船長になることを、みんなに誓うよ!」
 ふたたび大歓声が起こった。
 私は船員たちを掻き分け、コクラン船長の前に膝をついた。「大丈夫ですか、船長。私の部屋に来てください。傷の手当をしましょう」
「待てよ、先生」とアンバーが立ち塞がった。「まだ用事は済んじゃいねえ。ほら、こっちを向け、コクラン」
 アンバーは船長のあごを掴むと、乱暴に自分の方に向けた。
「俺に、宝箱の鍵を渡してもらおうか」
「断る。あれは私の持ち物だ。お前には絶対に渡さな――あっ」
 コクラン船長は顔を押さえて呻いた。指のあいだから鮮血が滴り落ちる。アンバーがナイフで斬りつけたのだ。
「やめないか、アンバー!」と私は叫んだ。
「おい先生。船長に意見する気か?」アンバーは嫌な目で私を見た。「今回は見逃してやる。だが次はないぜ。船でただ一人の医者だからって、俺は甘やかすつもりはないからな」
 横殴りの風が甲板を吹き過ぎた。強風に混じっている細かい波しぶきが私の顔を叩いた。
「俺の優しさは、これで最後だぞ、コクラン」とアンバーは冷たく告げた。「鍵はあんたが身につけているか、船長室に隠しているかだ。あんたの喉を切り裂いてから、ゆっくり探したっていいんだ。だが大人しく鍵を渡せば命だけは助けてやる。どうすべきか、考えるまでもないだろう?」
「私の結論は出ている」コクラン船長は威厳を込めて答えた。「あの宝は、お前には渡さない」
「この馬鹿めが!」アンバーは叫ぶと、船長の胸にナイフを突き立てた。船長は仰向けに倒れ、そのまま絶命した。背後で誰かが、あっ……と呟くのが聞こえた。
「せっかくチャンスをやったのに、なんで命乞いをしないんだよ!」アンバーは苛立たしげに船長の服を探った。「くそ、持ってない。じゃあ鍵は船長室か。よし、探しに行くぞ」
 アンバーは立ち上がると船長室に向かった。数人の取り巻きたちが後に続く。しかし大半の者はその場に残った。
「ひでえ。殺すことはないじゃないか」と誰かが言った。
「これなら、コクランの方がずっと良かった……」と別の誰かが呟いた。
 先程までの熱狂はすでになく、皆の顔には後悔の色が浮かんでいた。
 私は船長の胸に刺さったナイフを引き抜き、開いたままの瞼をそっと閉じた。
「みんな、船長の遺体を雨のかからない場所へ運んでくれ」
 私が振り返って言うと、船員たちは頷き、遺体を船長室に運び込んだ。
 船長室は酷い有様だった。室内は嵐が通り過ぎた後のように荒らされていた。
 アンバーと数人の男たちは、憎々しげに壁際の宝箱を見つめていた。鍵は見つからなかったのだ。
 彼らは宝箱を蹴りつけた。何度も何度も。だが鉄製の頑丈な箱はびくともしなかった。
 私たちは連中には取り合わず、コクラン船長をベッドの上に横たえた。そして小さく十字を切り、彼の魂が神の御許に召されるよう祈りを捧げた。
 祈りの静寂は、窓から飛び込んできた鴉によって破られた。
 鴉が部屋の中を飛び回りながら、次々に船乗りたちに襲いかかったのだ。
 コクラン船長は鴉をとても可愛がっていた。鴉も船長に懐いていた。その船長を殺された鴉は怒り狂っていた。
 鋭い爪で皮膚を切り裂かれた船乗りたちは、悲鳴を上げて逃げまどった。
「落ち着け! たかが鴉じゃねえか。俺がすぐに退治してやる!」
 アンバーの制止も、恐慌をきたした皆の耳には届かず、彼らは出口に向かって殺到した。
 そのとき、ガリガリガリと不気味な音と共に、オールドグレー号に鈍い衝撃が走り、全員が床の上に投げ出された。
 何が起こったのか、書くまでもないだろう。船底が浅瀬の岩礁に乗り上げ、座礁してしまったのだ。
 船倉の様子を見に行った者が、蒼い顔をして駆け上がってきた。「まずいぞ。船底に穴が開いて、どんどん海水が入ってきてる!」
 このひとことで一同はパニックに陥った。
 もしコクラン船長が健在だったら、冷静に指揮を執り、このパニックを鎮めることができただろう。しかし船長として何の経験もないアンバーに、水夫たちを統率するのは無理だった。船員が我先にボートに殺到して逃げだそうとしたが、恥知らずにも、真っ先にボートに乗り込んだのはアンバーだった。
「先生、あんたは俺たちと一緒に来るんだ」
 ナイフで脅され、私はやむを得ずアンバーやジンジャーと同じボートに乗った。
 十艘以上のボートが、喜望峰を目指して漕ぎ出した。だが安心するのは早かった。多くのボートが強風に泡立つ横波を受けて、次々にひっくり返った。転覆を免れたボートは、追いかけてきた鴉に襲われた。船員たちはバランスを崩し、ボートから荒れる海に落ちて見えなくなった。
 気がつくと、ボートは我々が乗る一艘だけになっていた。
 さすがにアンバーとジンジャーは練達の水夫だった。二人は巧みに波を避けながら、岬に向けてボートを進めていく。
 天気の良い日ならまだ明るい時刻だが、ぶ厚い雨雲に覆われたこの日は、すでに夜のように薄暗かった。遠ざかっていくフレドリック号も、もどかしいほど少しずつ近づいてくる喜望峰も、黒く塗りつぶされた固まりにしか見えなかった。
 今思い返しても不思議なのだが、黒く横たわる岬の一箇所だけが、ほのかに白く浮かび上がっていた。砂浜だ。アンバーとジンジャーはその白き砂浜を目指して全力で漕ぎ続けた。
 そのとき、耳元で唸りを上げる風雨の中に、鴉の鳴き声が混じった。
 私はハッとして空を見上げた。暗い灰色の雨雲が視界いっぱいに広がっている。他には何も見えない。だが鳴き声は徐々に近づいていた。私は必死に目を凝らして、鳴き声が聞こえてくる方向を突き止めようとした。
 そしてついに鴉を見つけた。この向かい風の中を、ゆうゆうと翼を広げて飛んでいた。鴉は羽ばたきもせず、不気味なほど静かな雰囲気を湛えて、このボートを追尾していた。
 ジンジャーは青ざめたが、アンバーはペッと唾を吐いた。
「先生、場所を替われ」アンバーが顎をしゃくった。「鴉の相手は俺がする。お前たちは全力でオールを漕げ。海に落ちるなよ。落ちても助ける余裕はないぜ」
 アンバーは私と席を替わると、床に置いていた銃をそっと手元に引き寄せた。だが構えずに膝の上に置いた。ジンジャーの姿に遮られて、鴉は銃の存在に気づいていないようだった。鴉とボートの距離はみるみる縮まっていく。だがアンバーはまだ構えない。ぎりぎりまで引きつけてから撃つつもりなのだ。
 鴉が長い翼を大きく羽ばたかせ、海面すれすれを滑走してきた。そして素早く舞い上がり、鋭い鉤爪をジンジャーの頭に食い込ませた。
「ジンジャー! 伏せろ!」アンバーが銃を構えた。
「ばか、よせ!」ジンジャーが頭を抱えて突っ伏した。
 銃の照準はぴたりと鴉に据えられていた。私は銃の引き金にかけたアンバーの指に力がこもるのを見た。だが引き金を引く寸前、大波がボートの横っ腹を叩いた。ボートが木の葉のように回り、私は縁を握りしめて振り落とされまいとした。
 危険を察知した鴉は、さっと身を翻してボートから離れた。
「ちくしょう! こんなに揺れちゃ、何もできねえ」アンバーが吐き捨てた。
 そのとき、ボートの底に砂が当たるのを感じた。
「浜に着いたぞ!」ジンジャーが叫ぶ。
「ボートを引き上げるのは任せたぞ」アンバーはボートから飛び降り、砂浜に片膝をついて、銃を構えた。「さあ、来やがれ!」
 私は夢中で、ジンジャーと共に、ボートを砂浜の乾いた場所まで押し上げた。
 それから急いで振り返ると、アンバーは波打ち際に立って海を見つめていた。
 鴉は悠々とフレドリック号に向かって帰っていくところだった。おそらく陸地でアンバーとやり合うのは不利だと判断したのだろう。
 私たちは荒い息を吐きながら、お互いの顔を見つめた。
「助かったのは、俺たちだけのようだな」アンバーは言った。
「まったく、何と酷いことだ……」ジンジャーは声をつまらせた。
「まあ命が助かっただけでも良しとしようぜ。それより」アンバーは私に笑いかけた。「やっぱり、あんたを連れてきて正解だったぜ、先生。まずは雨をしのげるところを探そう。それから傷の手当てを頼む」
 私は二人の後について歩きながら、そっと安堵のため息をついた。どうやらアンバーもジンジャーも気づかなかったようだ。
 コクラン船長を助け起こしたとき、船長が他の皆には分からないように、私に宝箱の鍵を手渡したことに。
 そしてボートの上で二人が鴉に気を取られている隙に、手すり板の割れ目に、その鍵を押し込んでおいたことに。

----------

「これでようやく、コウリッジが殺された理由が明らかになったね」ホームズは日記から顔を上げて言った。「コウリッジは財宝を独り占めして逃げようとしたが、アンバーの目は誤魔化せなかった。アンバーは、こっそり廃屋を抜け出したコウリッジの後を追いかけて詰問したんだろう。そして怒りに駆られてコウリッジを殺してしまったんだ」
「まあ、そんなことだろうと思っていたさ」とモリアーティが言った。「だが幸い、我々は明日、ボートに乗り込む。そのときに鍵を回収しよう」
「うむ。最後の謎が解けてすっきりしたよ」ホームズは日記帳を閉じると、咳払いをした。「ひとつ提案があるのだが、僕たちのどちらか一人が、この部屋で眠ることにしないか。君だってベッドを独り占めして眠りたいだろう?」
「それは悪くない考えだ」モリアーティも同意した。「好きな方を選んでも構わないかね?」
「構わないとも」
「では、私はこの部屋を使わせてもらおう」
 ホームズは微笑した。「快適な部屋を取られてしまったな」
「どちらの部屋も最低だぞ」モリアーティが短く笑い、すぐに真顔になった。「やはり私と君は似ているな。他人と絹のシーツにくるまって眠るよりも、冷たい石畳の上に寝転がって星を見ているほうを好むのだ」



 夜明け前。まだ暗い岬の上を四人の男が歩いていく。
 男たちは黙々と歩いている。先頭はアンバー、そして二丁のマスケット銃を抱えたジンジャーが続き、その後ろをモリアーティ、最後がホームズだ。ホームズは水平線を見つめながら、物思いに耽っていた。
 この海の遙か彼方に巨大な氷の大陸があるという。
 見てみたいものだ、とホームズは思う。
 南極の中心部。どちらを向いても、すべて北になる地球上でただひとつの場所に立ったら、どんな気分だろう。
 自ら飛行機を操り、極地の荒ぶる海を跳び越え、真っ白な氷の大地に着陸する。
 その光景を想像すると、ホームズは胸が熱くなり、居ても立ってもいられなくなった。
 この数日のあいだに、十九世紀のロンドンに暮らしていたら一生味わえない体験をいくつもしたが、それでも心が晴れないのは、この時間旅行が自分の意志によるものではないからだ。
 どこへ行くか、誰に会って何をするのか、自分で決められない旅など、どれほどの価値があろうか。
 空は少しずつ白み始めていたが、海の色はまだ暗く、沖の座礁船も影絵のようだった。今日も風が強い。雲が飛ぶように流れていく。四人は浜辺に続く斜面を下り、砂の上に立った。
 伏せておいたボートをひっくり返し、波打ち際まで運ぶ。
「もう一度、手順を確認するぞ」
 アンバーが声を潜めて他の三人を見回した。
「ホームズとモリアーティがボートでオールドグレー号に向かったら、俺とジンジャーはあの岩陰の裏側で待機する。くそったれ鴉に見つからないようにな。ボートが近づけば、鴉は必ず、あんたらに攻撃を仕掛けてくる。そしたら退却してくれ。鴉をうまく連れてくるんだぜ。
 銃の射程距離に入ったら、俺は鴉を撃つ。一発で仕留めてやるから安心しろ。何か質問はあるか?」
「特にない」とホームズとモリアーティは答えた。
「けっこうだ。ジンジャー、銃の準備はできてるな?」
「ああ。問題ない」
「じゃあ始めよう。頼んだぜ、お二人さん」
 アンバーはにっと微笑むと、ジンジャーを促して岩陰に隠れた。
「では僕たちも出航準備に取りかかろう」
 ホームズとモリアーティは、ボートを波の上に押し出し、海面を滑り出したボートに飛び乗った。
 ホームズが舳先、モリアーティが艫に座り、オールを手にとった。
 呼吸を合わせて沖のオールドグレー号に向かって漕ぎ出した。
 ひと漕ぎする度に、オールを差し込んでいる側舷の窪みが、ギィ、ギィと嫌な音を立てる。
「鴉は私たちを敵だと思うだろうか」モリアーティが話しかけた。
「当然だろう、私たちはアンバーと組んでいる」ホームズは答えた。「敵だと思わないのなら、宝の護り役として失格だ」
 夜明け間近の海の上を、ボートは滑るように進んでいく。
「さて、充分に岸から離れたぞ」とモリアーティが言った。「そろそろ鍵を探しても大丈夫だろう」
「日記によれば、コウリッジは二人の漕ぎ手のあいだに座っていた」とホームズ。
「私がやろう」とモリアーティが言った。「君はアンバーの様子を見ていてくれ」
「フフ。だから私に舳先を譲ったんだね、教授?」
「なに、偶然だよ」そう言いながら、モリアーティが手すり板に指を走らせた。「ふむ。たしかに小さな亀裂がある。何か押し込んであるが……」
「鍵かい?」
「おそらく。だが困ったことに、亀裂が細すぎて指が入らない」
「なんだって?」
「まあ焦るな、何とか方法を考えてみよう」モリアーティが腕組みをして、のんびりと空を見上げた。
「手を止めず、漕ぎながら考えてもらえると有り難いのだがね」
「分かった分かった」
 モリアーティが苦笑してオールを手に取った。


 難破船に五十ヤードまで近づいたところで、どこからか鴉が現れた。
 鴉は警告するように、ギャア、ギャアと鳴きながらマストの周囲を旋回した。
「ひどく怒ってるな」とモリアーティ。「攻撃してくるかな?」
「たぶんね」とホームズ。「アンバーによれば鴉は呪いを使うらしい。それが本当なら、催眠術のようなものかな。だとしたら安心だ。僕たちはフレデリック号に背中を向けているから視線が合う恐れはない」
「呪いなど、あるわけがなかろう」
「分かっている。だが不合理な事象に理屈をつける遊びは、いい退屈しのぎになる」
 二人は軽口をたたきながら、警告を無視して難破船に近づいていった。
 と、背後がふいに静まり返った。
 嫌な予感がして振り向くと、どこにも鴉の姿が見えない。
「上だ、ホームズ!」モリアーティが叫んだ。
 はっとして空を仰いだホームズは、鋭い爪を広げて舞い降りてくる鴉を見た。
 とっさにホームズは腕を上げて顔を庇った。前腕部に鋭い痛みが走った。
 一撃を済ませた鴉が離れた後、腕を見ると、ジャケットの袖が破れて血が滲んでいた。
「ステッキがあれば、すれ違いざまに叩き落としてやるのだがな」モリアーティが忌々しげに呟く。
「鴉を退治するのは、僕たちの役目じゃない」ホームズはオールを握り直した。「アンバーの銃の射程距離内に鴉を誘い込もう」
 ボートを反転させ、浜に向かって退却を始めても、鴉は諦めなかった。
 急降下による鉤爪攻撃に、フェイントを織り交ぜて、しつこくホームズとモリアーティを責め立てた。
 数度の攻撃で、ホームズは腕と肩に傷を負った。そしてついに鴉の鋭い爪が、モリア−ティの顔を掠め、彼の青白い頬に血を滲ませた。
 モリアーティが舌打ちをして、オールを海面から引き抜いた。水かきの部分を上に向けて槍のように持ち、鴉を睨みつける。
「それほど死にたいのなら、鴉よ。私が望みを叶えてやろう」
「落ちつくんだ、モリアーティ」ホームズが囁いた。「すでにアンバーの銃弾が届く距離まで戻っている。気持ちは分かるが後はアンバーに任せよう」
「分かっている」鴉を睨んだまま、モリアーティも囁き返す。「だが鴉の注意をこちらに引きつけておかないと、アンバーの存在に気づかれる恐れがある」
「たしかに君の言う通りだな」ホームズも槍を投げるようにオールを構えた。「さあ、黒き死の使いよ。教授に叩きつぶされるか、僕に刺し貫かれるか、好きな方を選ぶがいい」
 ボートの二人が戦闘態勢に入ったのを見て、鴉は慎重になった。オールが届かない距離を保ったまま、円を描くようにボートの上を舞っている。
 にらみ合いの時間が数秒続いた。
 パアァァン……。
 銃声が轟き、漆黒の羽根が四方に飛び散った。
 胸を撃ち抜かれた鴉は、くるくると回転しながら落下していき、音もなく着水した。
 ホームズは海面に漂う黒い固まりをじっと見つめた。その視線をモリアーティに戻す。彼はボートの床面に伏せていた。
「終わったよ。教授」ホームズは静かに声をかけた。
 だがモリアーティは、低く伏せた姿勢のまま動かなかった。
「おや、アンバーがまだ銃を構えているね。しかも銃口はぴたりと僕に向いている」
 肩越しに海岸の方を振り返ったホームズが言った。
「鴉だけではなく僕を撃ち殺せと、秘かにアンバーに命じたのだろう、モリアーティ? だが残念ながら、彼が僕を撃つことはできないよ」



 モリアーティはゆっくりと上体を起こした。
 浜辺では、アンバーが呆然と自分の銃を見つめ、装填されているはずの銃弾を確認していた。すぐにアンバーが「くそっ!」と叫んで銃を足元に叩きつけた。
 その光景を愉快そうに眺めていたホームズが、モリアーティに顔を向けた。
「さて、何か言うことはあるかね、教授?」
「ときどき私でさえ」モリアーティが小さく頭を振った。「君が怖くなるよ。実はどこかに隠れて、私とアンバーの会話を聞いていたのではないかね?」
「盗み聞きをする必要などないさ。推理とは、事実の断片を組み合わせて全体を再構成する作業だ。僕は他人よりもそれが上手くできるだけだ」
「おめでとう。今回は君の勝ちだな」悪びれもせずにモリアーティが賛辞を送った。
 ホームズは手を伸ばして、波間に漂っていた鴉の羽根を拾い上げた。「ささやかな冒険の記念として、こいつを僕の部屋に飾るとしよう」
 ボートは再び動き出した。
「どうやって私の企みを見抜いたのか」オールを操りながらモリアーティが訊ねた。「説明してくれないか」
「いいとも」とホームズは頷いた。「正直に言うが、最初は君の企みにまったく気づいていなかった。18世紀半ばの喜望峰にタイムスリップした僕たちは、二発の銃声によってオールドグレー号生き残りのアンバーと遭遇し、鴉退治に協力することになった。
 まるで芝居のようにうまく話が進んでいくものだな、と少し怪訝に思ったが、この成り行きにまさか君の意志が介在していようとは、あの時点では想像もしなかったよ。
 ところが、砂浜に残されていたコウリッジの足跡を調べたとき、僕は足跡のすぐ近くに、何発もの銃弾が撃ち込まれているのを発見した。
 この状況は、アンバーが銃でコウリッジを海に追いつめて殺したことを示している。彼は嘘をついていたわけだ。
 同時にもうひとつの嘘が明らかになった。僕が耳にした銃声は二発なのに、砂浜に打ち込まれた銃弾は三発だった。
 それが何を意味しているのか。
 あのとき我々が聞いたのは、コウリッジが殺されたときより、もっと後に発射された銃声だったのだ。
 しかし僕は、アンバーを問い詰めなかった。彼の言動が納得できなかったからだ。そもそも彼には嘘をつく理由はなかった。犯行時刻を誤魔化しても、鴉の呪いのためにコウリッジが死んだと嘘をついても、アンバーにはまったくメリットがないんだ。
 それなのにアンバーは嘘をついた。なぜだろう。この偽証で得をするのは誰か。アンバーではない。ジンジャーでもない。もちろん僕でもない。ではモリアーティは?
 そこまで考えたとき、僕にもようやく、この物語の本当の姿が見えてきたのだ」
 ホームズは微笑んだ。
「喜望峰にタイムスリップしたとき、僕は一人だった。あわてて君の姿を探し、岬の上で海を眺めている後ろ姿を見つけた。安堵した僕は、迂闊にも僕よりもわずかに早く君が到着したのだろうと思い込んでしまった。しかし、そうではなかったのだ」
 ホームズは言葉を切って、モリアーティを見つめた。
「なぜ君は、あの場所に立っていたんだ? 君が到着したとき、僕はまだ異空間にいた。僕から逃げ出す絶好のチャンスじゃないか? 到着のタイムラグを利用して逃げていれば、きっと見失っていただろう。そうしなかったのは何か理由があるはずだ。僕は、なぜ君が逃げなかったのか、その理由を考えてみた」
「君の思考を邪魔しようと、あれこれ話しかけたのだが……うまくいかなかったな」
「この計画の本当の立案者は、モリアーティ、君だった」とホームズは言った。「君は僕よりもずっと早くこの世界に到着していた。そしてアンバーがコウリッジを殺害する場面を目撃したのだ。
 その瞬間、君はこの状況を利用して僕を排除する方法を思いついた。そして鴉を始末することを手伝う交換条件として、アンバーに僕を撃つよう取引を持ちかけた。もちろんアンバーに断る理由はなかった。かくして悪党同士の合意が成立したというわけだ」
「まるで見てきたようだな」モリアーティが淡々と言った。「だが、その通りだ」
「後は説明の必要もないだろう。僕が到着し、君と合流するのを確認したアンバーは、銃声を響かせて僕たちを呼び寄せた。そして初めて会ったふりをして、僕たちに鴉退治を持ちかけた。危険が伴う頼みを君があっさり引き受けたので、少し意外な気はしたんだ。普段の君なら鼻も引っかけずに断わるだろうからね」
「たしかに」とモリアーティが小さく笑った。「では、私も君に倣って、ささやかな推理を披露してみようか」
「ぜひ聞かせてくれ」
「コウリッジの部屋を調べた後で、君が別々の部屋で眠ろうと言い出したのは、私に知られずにやりたいことがあったからだ。君は一人になると、ジンジャーの部屋に行き、アンバーが裏切ろうとしていることを告げた。アンバーに不満を募らせていたジンジャーは、君の推理を信じた。おそらく君はこう言ったはずだ。『アンバーは鴉を始末した後、僕たち全員を殺して財宝を独り占めする気だ。それを防ぐために、アンバーに渡す銃には弾を一発だけ込めておいてくれ』と。違うかね、ホームズ? 私とアンバーに対抗して、君とジンジャーも共同戦線を張ったのだ」
 そのとき、ターンという銃声が響き渡った。
 素早く振り向くと、波打ち際にアンバーが倒れており、その横にジンジャーが立っていた。ジンジャーが持つ銃の先から一筋の煙が立ち上っている。
「アンバーを殺したのも、君の筋書きか?」
「まさか」
「だろうな。つまり」モリアーティが指摘した。「作戦の指揮権は、君からジンジャーの手に移ったということだ」
「一難去って、また一難か」
「ジンジャーの表情を見てみろ」とモリアーティが言った。「奴は私たちの口も封じる決心を固めたようだぞ」
「困ったな」ホームズは肩をすくめた。「できれば銃は使いたくなかったが」
「自分を殺そうとしている相手に博愛主義を貫くのか。立派なことだ」
「そうじゃない」ホームズは首を振った。「この先もまた、今日のような危険に見舞われるだろう。そのときに備えて、なるべく弾を温存しておきたいのだ」
「なるほど。それもそうだ」モリアーティが頷く。「ならば私に任せておけ。君を殺そうとしたお詫びに、私が何とかしよう」



 二人は悠然とボートをこぎ続け、波打ち際まで来ると飛び降りて、ボートを浜に引き上げた。
 そして、ゆっくりとジンジャーに向き直った。
 ジンジャーの銃はモリアーティの胸を狙っていた。
 銃を突きつけられても、モリアーティは平然としていた。
「ジンジャー君。君に見せたいものがある」
 モリアーティはコートのポケットから何かを掴み出すと、ジンジャーに突き出した。指先に黒い鍵がぶら下がっていた。
「説明の必要はないだろうが、宝箱の鍵だ」とモリアーティが言った。「もし君が我々を撃つ素振りを見せたら、この鍵を海に投げ込む」
「ふん。やってみろよ」ジンジャーが嘯いた。「お前たちを殺した後で、海から拾い上げればいいだけだ」
「ほう。いいのかね。賭けてもいいが君は泳げない。私が背丈よりも深い場所に鍵を投げ込めば、永遠に宝箱の中身を拝むことはできなくなるぞ」
 ジンジャーとモリアーティは睨み合った。
「ちっ。分かったよ」ジンジャーが銃口を下げた。「お前らは撃たない。約束する」
「では持っている銃弾を残らず、ホームズに渡してもらおう」
「……いいだろう」渋々の表情で、ジンジャーが弾をホームズに手渡した。
「結構。ただし鍵を渡すのは」モリアーティが岬を見上げた。「あそこにしよう。大事な話し合いをするのに相応しいのは、眺めのいい場所だ」
「ここでいいじゃねえか」ジンジャーが苛立った声を上げた。だがすぐに諦めたようにため息をついた。「くそ、分かったよ。行きゃいいんだろう」
 岬の上に続く斜面を上りながら、ホームズはひとりごとを言った。
「しばらくアフタヌーンティーを飲んでないな。ハドスン夫人の朝食がそろそろ懐かしくなってきたよ」
「本当に懐かしいのはコカインじゃないのか」モリアーティがからかった。
 ホームズは口元に僅かな苦笑を浮かべて答えなかった。


 ほどなく三人は岬の先端に到着した。
「さあ。鍵を渡してもらおうか」ジンジャーが手を差し出した。
 その手の上にモリアーティが鍵を乗せると、ジンジャーが笑い出した。「見かけによらず、馬鹿な連中だぜ。少しは駆け引きってやつを考えろよ」
 ジンジャーが得意げにポケットから弾を掴み出して銃に装填するのを、モリアーティは澄まして眺めていた。
「遺言があれば聞いてやるぞ」ジンジャーが勝ち誇ったように言った。
「遺言などないが、ひとつ不思議なことがある」真面目な表情でモリアーティが言った。
「不思議なこと?」
「そうだ。アンバーが見事に鴉を仕留め、浜辺に向けてボートを漕ぎ出したとき、ふと気になって振り返ると」モリアーティが眉をひそめた。「海面のどこにも鴉の死骸はなかった。いつのまにか消えていたのだ」
 ジンジャーがぎょっとした。「……いい加減なことを言うな」
「つまり」モリアーティが静かに告げた。「鴉はまだ生きている、ということだ」
 すっと陽射しが陰った。
 ホームズが空を見上げると、太陽を背にした大鴉が我々に向かって急降下してくるところだった。
 ジンジャーが悲鳴を上げながら、鴉に向けて銃弾を放ったが、弾は大きく逸れた。ジンジャーの腕前はアンバーに遠く及ばなかった。
 空気を切り裂くように鴉が咆哮した。
 それが合図のように、周囲の大気がビリビリと静電気を帯び始めた。
 ホームズは、モリアーティを振り返った。
 こちらを見返しているモリアーティの全身が小さな火花を放っていた。ホームズは自分も同じ状態になっていることに気づく。
「出発の時が来たようだね」ホームズは手の平で鹿撃ち帽を強く押さえた。
「やれやれ」とモリアーティが言った。「また行き先不明の時間旅行か」
 二人は視線を交わすと、一気に助走して岬の先端から跳んだ。
 視界いっぱいに、大空と大西洋とインド洋が広がり、吹き上げてきた潮風が二人を包む。
 背後でジンジャーの断末魔が聞こえ、すぐに音も、風も、匂いも、消え去った。

(続く)


posted by 沢村浩輔 at 00:33| Web小説

2022年12月01日

『週末探偵 夏休みの探偵たち』


とっくに夏は過ぎ、初秋も過ぎ、もはや晩秋どころか場所によっては初冬だというのに、季節外れの真夏の話を載せます。
「過ぎ去った夏の日に思いを馳せて」といういい加減な言葉を掲げつつ。



『週末探偵 夏休みの探偵たち』

 世の中の探偵を、いろいろな切り口で分類してみよう。
 たとえば仕事のスタンスで分けると、@なんでもやります派と、A仕事にはこだわりがあります派になる。前者について説明の必要はないだろう。後者の探偵たちは、警察がお手上げの難事件のみを引き受けたり、普段は専門的な別の仕事に就いていて、その知見を活かして事件を解決したりする。
 あるいは探偵の属性で分類するという手もある。行く先々で事件に遭遇したり、刑事課に知り合いがいたりする、B仕事には困らない派と、その逆の、C待てど暮らせど仕事が来ねーよ、なぜなんだ派である。
 世間で名探偵と称される人物は、ほぼ例外なくAーBタイプである。その妥協を排したスタンスと恵まれた属性を武器に、着々と実績をつみ重ね、ますます名声がとどろくことになる。
 では、この小説に登場する探偵たちはどうか、というと、AーCタイプになりそうだ。
 主人公は瀧川一紀と湯野原海。どちらも二十代後半の男性だ。二人は東京郊外の静かな住宅街の一角で探偵事務所を開いている。ここまでは普通だ。だが、そこから先が少しだけ変わっている。
 彼らがPR用に制作したウェブサイトには、こんなメッセージが書いてある。
「あなたの人生に、不思議はありませんか? 我々は、不思議な依頼を求めています。もし、あなたが人生の謎を解いてみたいと思うなら、我々がお手伝いします」
 属性Cのくせに、仕事をえり好みする気が満々である。
 いうまでもなく、人生に不思議なできごとなど、そうそう起こりはしない。
 しかし世間は狭いようで意外に広く、滅多にいないはずの不思議な経験の持ち主が、たまたま二人の存在を知り、駅から徒歩二十分もかかる事務所まで、わざわざ足を運んでくれることが実際にあるのだ。
 ありがたいことだ。当然、この貴重なチャンスを逃さず、何とか契約に漕ぎつけるのが、腕の見せ所だろう。
 ところが、興味を惹かれて事務所を訪ねて行った人は、テーブルを挟んで向かい合った探偵たちから、次の言葉を聞かされることになる。
「報酬はいただきません。ただし、依頼内容が俺たちの気に入らなければ、お断りします」
 おそらく読者は、ひとつの疑問を抱かれるだろう。気に入った依頼だけを引き受けるのか。それは結構だが、お金を取らずにどうやって生活するつもりだ、と。
 ここで筆者はようやくタイトルの説明に入ることができる。『週末探偵』。そう、彼らは週末だけの探偵である。平日は会社勤めをして、その給料で暮らしている。二人が何の仕事をしているのかは、公表しない約束なので、ここには書けない。最近は副業を認める会社が増えている、というニュースを耳にされた方もおられるだろう。そういう会社に勤務しているとご理解いただきたい。
「べつに探偵がどこの会社に勤めていようが興味はないよ。私が知りたいのは、仕事をえり好みする我が儘な探偵のところに、本当に依頼に来る人がいるのかってことだ」
 その質問には、探偵の一人である瀧川一紀に答えてもらおう。では瀧川君、よろしく。
「ええ、いますよ。これまでに何度も興味深い依頼が持ち込まれて、俺と湯野原で解決しました。詳細は沢村浩輔という小説家が本にまとめているので、興味があれば読んでみてください。それより問題は……」
 瀧川が小さくため息をつく。
「面白そうな依頼が、滅多にないことなんですよ」
「だろうね。依頼がないときは何してるの?」
「いろいろです。来客用の珈琲を飲みながら湯野原と話し込むときもあるし、お互い黙々とスマホを触ってることもあるし、普段の睡眠不足を解消するために――」
「あ、寝てるんだ」質問者は少し呆れ顔だ。
「たまにですよ! ソファの座り心地がとても良いので、つい、ウトウトすることもあるだけで」
「そんなにムキにならなくても」
「なってませんよ。でも」ここで瀧川は何かを思い出したらしい。口元に笑みが浮かんだ。「ときどき予想外のできごとが舞い込んでくるので、それほど退屈はしないかな」
「たとえば、どんな?」
「そうですね。少年探偵団から挑戦状が届いたので、受けて立ったりとか」
「へえ、ちょっと面白そうだね。よかったらその話、聞かせてよ」



 開け放した窓から飛び込んでくる蝉時雨があまりにうるさかったので、不覚にも階段を上ってくる靴音に気づくのに遅れてしまった。
 デスクに頬杖をついて、ウトウトしていた瀧川一紀が、来訪者の気配に「ん?」と顔を上げると、ドアのガラス越しに子供たちと目が合った。近所に住んでいる小学五年生の哲くん、優樹くん、叶くんだ。
「やあ」と瀧川は三人に向かって手を挙げた。
 瀧川と友人の湯野原海は、住宅街の一角に置かれた古い車掌車を探偵事務所にしている。敷地には一面に芝生が敷かれ、大きな楡の木の根元に、凸型の小さな車掌車が設置されていた。
 元々はある企業のオーナーが別荘代わりに購入したもので、オーナーが長年抱えていた謎を見事に解決したお礼として、今は瀧川たちが格安の家賃で使わせてもらっている。
 閑静な住宅地だから、当然、車掌車の存在は良くも悪くも目立つ。二人は週末だけ門を開けて、探偵事務所を開設しているが、お客はたまにしか来ず、その代わりに近所の子供たちが遊びに来たりする。
 彼らも月に何度もやって来る「常連」で、もうすっかり仲良くなってしまった。瀧川たちもジュースやお菓子を事務所に常備して、子供たちの来訪を歓迎している。
 ところが、いつもならドアを開けてにぎやかに入ってくる子供たちが、なぜか今日はドアのところに立ったままだ。
「どうしたんだ、みんな?」
 来客用のソファに座って本を読んでいた湯野原――といっても、いつのまにか眠ってしまい、本のページが閉じていたが――が目を覚まして、怪訝そうに訊いた。
 瀧川が身振りで「入って来いよ」と伝えると、哲くんが小さく首を振って、折りたたんだ紙をガラス越しに掲げた。
 北浦と湯野原は顔を見合わせた。
 よく分からないまま、北浦は立ち上がってドアを開けた。
「何してんだ? 早く入れよ。アイス買ってあるぞ」
「今日は僕たち、遊びに来たんじゃないんです」哲くんがあらたまった顔で言った。
「ははあ、分かった」瀧川は悪戯っぽく微笑んだ。「宿題を手伝ってくれって言うんだろう?」
 夏休みもあと一週間で終わる。溜めてしまった宿題を、必死に片付ける時期だ。少年時代の瀧川もそうだったから分かる。
「いえ。宿題はもう終わりました」優樹くんがあっさりと言う。
「そうか」今の子供は優秀だ。「じゃあ心置きなく遊べるな」
 ところが少年たちは真面目な表情で首を振った。
「今日は瀧川さんと湯野原さんに、挑戦しに来ました」と優樹くんが言った。
「挑戦?」
「ぼくたち、少年探偵団を結成したんです」と叶くんが説明する。
「へえ」瀧川は思わず笑顔になった。微笑ましく思ったからだが、少年たちは瀧川から軽くあしらわれたと受け取ったようだ。三人は少し気負った表情になった。
「どっちが優秀な探偵なのか、勝負してください」優樹くんが言った。
「なんだか、面白そうだな」
 湯野原がソファから立ち上がって、こちらに歩いてきた。
「俺たちに挑戦するとはいい度胸だ。受けて立とうじゃないか」とにこやかに言った。「いいだろ、瀧川?」
「そりゃ、いいけどさ」瀧川は肩をすくめた。どうせ今日は暇だ。「だけど、勝負するって、どうやって?」
「問題を考えてきました」優樹くんが手に持っている紙を瀧川に差し出した。「僕たち三人で考えた問題です」
 瀧川は折りたたんだ紙片を受け取った。
「いま、ここで問題を解くのかい?」
「いいえ」と哲くんが言った。「僕たちはゴールで待ってます」
「なるほど。君たちが待っている場所を探し当てればいいんだな」湯野原が言った。
「それじゃアオバデンキに行ってください」叶くんが言った。「そこがスタートです」
「アオバデンキ? ここじゃ駄目なのか?」瀧川は訊いた。
「駄目です」と優樹くんが言った。
「オーケイ。他には?」
「手ぶらで来てください」哲くんが言った。
「手ぶらで?」湯野原が訊ねる。「何も持っちゃいけないのかい?」
「スマホとか財布はいいです」優樹くんが答えた。「でも、それ以外は駄目です」
「ふうん」探偵たちは顔を見合わせた。「この挑戦状もここに置いていくのか?」
「あ、いえ」と叶くんが訂正する。「挑戦状は持ってていいです」
「了解」と瀧川は言った。「その条件で挑戦を受けるよ」
「それじゃ」少年たちが真剣な表情で宣言した。「勝負開始です」


 子供たちが引き上げると、瀧川と湯野原は、来客用のテーブルに紙を広げて眺めた。

--------------------------------------------------

 挑戦状  瀧川さんと湯野原さんへ

 この暗号をといてください。

 アオバデンキ(スタート)→S→A→MS→AS→AA→M→SA→AMS(ゴール!)

(ちゅうい)制限時間は30分です
(ヒント1)郷咲西町から出たらダメです
(ヒント2)あついから熱中しょうに注意して水分をほきゅうしてください!

--------------------------------------------------

「おお、暗号問題じゃないか」湯野原が嬉しそうに呟く。
「アルファベットの意味を解いて、ゴールを目指せってわけか」
 子供たちが知恵を絞ってこの暗号を考えたのだと思うと、瀧川はじんわりと暖かい気持ちになった。
「使われているアルファベットは三種類だ」と湯野原が言った。「SとAとMだ」
「アルファベットは単独で使われているもの、2つ並んでいるもの、3つ並んでいるもの、の3通りがある」瀧川も言った。
「SもAもMも、それぞれ単独で使われている。そしてAだけはAAと重ねて使われている」
「Aには二種類の意味があるってことかな」
「アルファベットの並び順は、AMと、MAの両方があるから、必ずしもABC順で並べているわけじゃない」
「そうだな」
 きっとアルファベットの順番にも意味があるのだ。
「挑戦状を眺めて分かることは、このくらいかな」
「まずはスタート地点に行ってみるか」
 二人は立ち上がった。



 瀧川と湯野原は、事務所に鍵をかけ、車掌車にとりつけた木製のタラップを降り、一面に芝生が敷かれた庭を通り抜けて道路に出た。
 挑戦状は四つ折りにして、ボディバッグに入れてある。
 二人は肩を並べて、のんびりと坂道を下っていく。道の両側は閑静な住宅街だ。
 スタート地点に指定されているアオバデンキは、ここから少し離れたバス道沿いにある。
「でもさ」と湯野原が話しかけてきた。「なぜスタート地点が俺たちの事務所じゃなく、アオバデンキなんだろう?」
「だよな」その点は瀧川も少し不思議に思っていた。
「きっと何かの理由があって、アオバデンキから始めなければならなかったんだ」と湯野原が言った。
「なるほど」その指摘は重要かもしれない。
 事務所をスタート地点にすると、ゴールまで行き着けないのだ。
 スタートからゴールまで辿り着けるかどうかを競うゲームだから、その理由は事務所そのものではなく、その立地にあるはずだ。つまり周囲の状況だ。
 アオバデンキの周りにはあって、ここにないものは何だろう?
 瀧川は歩きながら町並みを観察した。
 交通量が少ない住宅地だから信号はない。バス停もない。アオバデンキのような店舗もない。いや、クリーニング店と小さな郵便局はあるか。
 だけど、ここにはAもSもMもないのだ。
 住宅地を五分ほど歩くとバス道に出た。照り返しの強い舗道を東へ進み、アオバデンキの前に立った。おそらく昭和の時代からここで商売をしている個人経営の電気店だ。だが店は閉まっていた。しばらく休業します、という断り書きがシャッターに貼られている。
 ということは、この店が営業しているかどうかは暗号の解読とは無関係だ。
「まずは、最初のSが何を意味するのか、だ」湯野原が周囲を見回した。
「重要なのは、暗号に使われているアルファベッドが、わずか三種類しかないことだと思うんだ」
 瀧川は歩きながら考えたことを話した。
「たしかに、少ないな」と湯野原が頷く。
「たとえば、目的地までの道順を人に教えるとき、二通りの伝え方がある。ひとつは、『この道を真っ直ぐに進んで、二つ目の交差点を右に曲がる』と方向のみで指示する方法。もうひとつは、『この先のコンビニの角を右に曲がって、ガソリンスタンド前の交差点を左に曲がる』というように、建物などを目印にして行き方を示す方法だ」
「うん」
「アルファベットが三種類だけ、という点から、おそらく子供たちはひとつめの方法を採用していると思う」
「なるほど」
「となると、アルファベットは方角、もしくは方向を示している可能性が高い」
「方角というのは、東西南北ってこと?」湯野原が訊く。
「そうだ」と瀧川は頷いた。「しかし東西南北だと、少なくともアルファベットが四種類必要になる。だから方角じゃない」
「てことは――」
「方向だ。方向なら、真っ直ぐ進め、右に曲がれ、左に曲がれ、の三種類あれば成立する」
「ああ、たしかにね」
 湯野原は頷いたが、すぐに小さく首を振った。
「でも、たぶん違うと思う」
「違う?」瀧川は思わず訊き返した。
「その仮説には矛盾がある」
「どこがだよ」瀧川は納得できない。
「いま俺たちはスタート地点のアオバデンキ前に立っている」と湯野原が言った。「そして、これからどちらに進むかを決めようとしている」
「分かってるさ。それで?」
「だけど、まだ動き出していない。バス道は市内を東西に横切っているから、進む方向は東か、西かの二択だ」
「そうだな」
「最初の暗号はSだ。Sは、俺たちがどちらに進めばいいのかを示している。そして瀧川の説だと、Sは真っ直ぐか、右か、左か、その3つの内のどれかだ。でも、それだと……」
「……なるほど。そういうことか」瀧川は湯野原が言いたいことが分かった。「方向の指示は、俺たちが歩き出さなければ機能しないんだ」
 二人が東に向けて歩き出せば、真っ直ぐは東、右は南、左は北だと分かる。しかし立ち止まった状態で、真っ直ぐに進め、と指示されても動きようがない。
「だから最初のSは方向じゃなくて」と湯野原が言った。「方角を示していると思う」
「だけどアルファベットは3つしかないんだぜ」瀧川は反論した。「3つだけでどうやって東西南北の指定をするんだ?」
「できるさ」
「どうやって? 無理だろ?」
「いや、できるよ」と湯野原は答えた。「ここは郷咲西町の南端だ。つまり、アオバデンキから北へ、東へ、西へ歩いて行けば必ずゴールまでたどり着けるんだ。でも南へ進む必要はない」
「そうか、だから子供たちはアオバデンキをスタート地点にしたのか」
 瀧川は納得した。ここが出発点なら、たしかに方角の指定は三種類で事足りる。
「Sは北か東か西のどれかを指している暗号だってことだな」
 ところが、当然同意すると思っていた湯野原は頷かなかった。



「Sが東であれ、西であれ」と湯野原が続けた。「確実に言えるのは、次は北へ向かわなければならないってことだ」
「分かってるさ」2番目の暗号はAだ。「Sは東か西、Aは北を意味しているんだろう」
「問題は、どの角で北に曲がるか、だ」
 湯野原はスマートフォンを取り出して、地図アプリを表示させた。
「郷咲西町は東西におよそ三百メートル。そしてアオバデンキはそのほぼ真ん中に位置している。バス通りを東に向かえば北へ曲がる角は5つ。西へ向かえば4つある」
「たしかに」瀧川もスマホを覗き込みながら頷いた。
「町内に南北方向の道路は9本ある。東西方向の道路は1、2……6本だ」
 ざっと54か所で道路が交わっているわけだ。
「ということは、ゴールが道路に面した場所にあるなら、アオバデンキからゴールまで、東、西、北の三種類の指示だけで、たどり着ける理屈になる」
「なるほど」
「ただし」と湯野原が言った。「実際には袋小路になっていて抜けられない場所があるし、行き止まりになっている道もあるから、AやSのようにシンプルな指示だけではゴールまで行き着けない可能性が高い」
「だからMSとかAMSのような、二文字、三文字の指示があるんだろう」
「たぶんね」と湯野原が頷く。「じゃあ、その場合は、具体的にどういう指示になると思う?」
「そうだな……。二通りのやり方があるんじゃないか」瀧川は考えながら答えた。「ひとつは、『ふたつめの交差点を東に』と指定する方法」
「うん」
「もうひとつは、『この交差点はそのまま直進』を交ぜるやり方だ。『北、直進、東、直進』みたいに指定すればいい……んじゃないか」瀧川の声が少しずつ小さくなっていった。
「瀧川はどっちだと思う?」
「……いや」瀧川は首の後ろを掻いた。「どっちも違う気がする」
「どうして?」いたずらっぽく湯野原が訊ねた。
「最初の方法なら、三文字の暗号は必要ないからだ。『次の角を東へ』なら東の一文字でいいし、『ふたつめの角を北へ』だったら、『ふたつめ』を意味するアルファベットと、北を表すアルファベットの二文字あれば伝えられる。
 二番目の方法なら、二文字さえ要らない。東、西、北、直進の4つのアルファベットを使えば、スタートからゴールまですべて一文字で指示が可能だ」
「俺もそう思う」と湯野原が言った。
「つまり」瀧川は小さくため息をついた。「この暗号は、どちらの方法でもないってことだ」
「ふりだしに戻ったな」湯野原が肩をすくめる。ちらりとスマホを見て、「うわ、まだスタート地点から一歩も動いていないのに、もう十分経ってる。残り時間は二十分しかないぞ」
「マジか。時間が経つのが早いな」瀧川はため息をついて、晴れ渡った空を見上げた。「それにしても暑いな。日陰があれば、少しはマシなんだが」
 瀧川は辺りを見回した。残念ながら日陰は見当たらなかったが、ある一点で視線が止まった。
 しばらくそれを眺めてから、瀧川は低く呟いた。
「……俺たちは難しく考え過ぎてたのかもしれない」
「えっ?」湯野原が怪訝そうに訊き返した。
「ほら、あの店」瀧川は二十メートルほど離れた看板を指さした。「しのはら不動産と書いてある」
「あ、……本当だ」しばし看板を見つめていた湯野原が、ふっと息を吐くように笑った。「それじゃ、Sは固有名詞の頭文字ってこと?」
「その可能性はあるだろ」
「もちろん」湯野原が頷いた。「充分にあり得るね」
「忘れてたよ」と瀧川は言った。「道を教えるのには、『しのはら不動産屋の角を北へ』という伝え方もあるってことを」



 しのはら不動産は営業中だったので、瀧川と湯野原は店から少し離れた場所で立ち止まった。
「仮にSが、しのはら不動産の頭文字だとしたら、次のAも名前の頭文字のはずだよな」
 二人は辺りを見回した。
「あれじゃないか?」
 しのはら不動産の横から北向きに延びる片道一車線の道路。その道路沿いに幼稚園が見えている。
 愛らしいリスとスズメのイラストが添えられた看板には〈あけぼの幼稚園〉とあった。
 他にAに当てはまりそうな建物は見当たらなかった。
「行ってみよう」
 頷き合って歩き出す。
 幼稚園の前に着いた。週末だから園内に子供たちの姿はない。
「ここがAってことでいいよな」
「じゃあ、次はMSだ」
 あけぼの幼稚園の少し先に、信号のない小さな交差点があって、交差点の一角に店舗らしき建物が見えていた。
 その建物には〈前田木材店〉という看板がかかっていた。職人らしき男性が軽トラックの荷台に木材を積み込んでいる。
 手前の交差点まで行き、真っ直ぐ、右、左と三方向を見渡してみたが、次の目標であるASと覚しき建物は見えなかった。
「なるほど、読めてきたぞ」と瀧川は言った。「しのはら不動産からあけぼの幼稚園が見えて、あけぼの幼稚園からも前田木材店が確認できた。次の目標が見える範囲にあれば、固有名詞のイニシャルだけを指定してあるんだろう」
「だけど前田木材店からは、次のチェックポイントであるASが見えない。だからMの後にSをつけて、進むべき方向を示しているんだ」
「暗号の二文字目に使われているアルファベットはSとAとMだ。真っ直ぐと右と左。どちらも三種類だから数は合っている」
「問題は、S、A、Mと、真っ直ぐ、右、左が、どう対応しているかだな」湯野原が言った。
「Sがストレートの略じゃないか、というのはすぐに思いつくけど」
「その法則だと、右はライトのRで、左はレフトのLでなければ辻褄が合わない」
 二人は再び考え込んだ。
「もしかすると、Sは〈そのまま進め〉の意味じゃないか?」瀧川は言った。「SONOMAMAのSだ」
「それならMと右は対応している。でも左とAは合わないけど」
「そこが問題だな。AじゃなくてHだったらぴったり合うんだが」
 あれこれ考えてみたが、Aと左を結びつけることはできなかった。かといって他にいい案も思い浮かばない。
「とりあえず、Sを真っ直ぐだと仮定して進んでみるか」



 探偵たちは前田木材店の前を直進した。
 夏の午後はうだるように暑く、通りに人影はなかった。
 どこかで蝉がやかましく鳴いている。アブラゼミだ。
 もし俺が虫取り網を持った小学生だったら、と瀧川は思う。あの蝉の声を目指して行くんだけどな。
 遠い蝉の声に、過ぎ去った日の記憶が蘇った。
「俺は子供の頃、蝉は魔法が使えると思ってたよ」
 瀧川は隣を歩く湯野原に話しかけた。
「魔法?」意表を突かれたように、湯野原がこちらを見た。「蝉が?」
「蝉の声には、聴いた人の体感温度を上昇させる魔法がかかっている」
「たしかに」湯野原が吹き出した。「特にアブラゼミの魔法は強力だ。炎天下の戸外で鳴き声を浴びせられたら、気温が三度くらい上がった気がする」
「だろ?」
 他愛のない話をしながら歩いていくと、T字型の三叉路に行き当たった。
「ここで行き止まりか」
「Aらしき建物はなかったよな?」
 一応確認し合ったが、見落としなどしていないことは、二人とも分かっていた。
 Sが真っ直ぐでないのなら、右か左のどちらかになる……。
「どうする?」湯野原が気乗りがしない表情で訊いた。「前田木材店まで戻って、右と左の道も調べてみるか?」
「いや、止めておこう」瀧川は首を振った。「そんなやり方で正解を見つけても、俺たちの勝ちにはならない。あくまでも暗号を解いて先に進まなきゃ」
「同感だ」湯野原も言った。「しかし、そうなると……」
「分かってる」瀧川も認めざるを得なかった。「俺たちの仮説は間違ってたんだ」
 暗号は〈固有名詞+方向〉ではなかったのだ。
「やるよなあ、あの子たち」湯野原が嬉しそうに呟いた。「こんなに苦戦するとは思わなかったよ」
 瀧川も気持ちが軽くなった。けっこう時間を無駄にしてしまったが、可能性の低い推理にこだわり続けても楽しくない。最初に戻ってもう一度考えればいいじゃないか。
「だけど、いったい何を見落としたんだろうな」
 瀧川と湯野原は歩きながら、検討を続けた。
「もしかすると俺たちは」と湯野原が言った。「暗号に囚われ過ぎていたんじゃないか」
「そりゃそうさ。暗号を解くゲームなんだから」
「いや、そういう意味じゃなくて。ほら、(ヒント1)を覚えてるか?」と湯野原が訊いた。
「郷咲西町から出たらダメ、というやつだろ」
「なぜ、子供たちはそんなことをわざわざ書いたと思う?」
「つまり……」瀧川は考えながら答えた。「AやSやMは、西町以外にも存在するってことか」
「おそらく」湯野原が頷く。
「他の町にもあるなら、当然アルファベッドは固有名詞じゃない」
「そして二番目のアルファベッドも、東西南北や方角を示しているわけじゃない。それなら西町を出ないように指示できる」
 話しながら歩く二人の横を、配送の軽トラックが通り過ぎていく。
「どの町にも存在するものって、何だろう」と湯野原が言った。
「コンビニとか?」瀧川は答えたが、すぐに思い直した。「……のはずがないか。西町にあるコンビニはバス道沿いの一軒だけだ」
「あるいは」湯野原が周囲を見回した。「電柱とかマンホール……でもなさそうだ。逆に数が多すぎる。電柱なんて百本以上あるだろうし」
「てことは、どこの町にもあって、電柱より少なく、コンビニより多く存在するものか……」
 つまり、俺たちが探さなければいけないのは、郷咲西町以外の町にもあって、電柱より少なく、コンビニより多く存在するものだ。
 それは全部で三種類あり、単体でも複数でも存在している。
 そして、条件をすべて満たすものは、おそらくひとつだけだ。
「何だろう?」
 瀧川はあと少しで正解にたどり着きそうな予感がしていた。
 ただし、ものを考えるのに相応しい環境であれば、だが。
「ダメだ。暑過ぎる!」瀧川はぼやいた。「暑くて全然頭が働かないぞ」
 天気予報によれば今日の最高気温は36度らしい。アスファルトの照り返しがあるから、実際はさらに2、3度高いだろう。
「飲み物を買って、ひと息つこう」と湯野原が提案した。
「そうしよう」瀧川は一も二もなく同意した。「挑戦状の中に熱中症に注意しろと書いてあるんだ。それなのに熱中症になったら、あの子たちに笑われる」
「本当だな」と笑った湯野原が、ふいに真顔になった。
「どうした?」瀧川は一瞬どきりとした。「気分が悪くなったのか?」
「いや、やっと分かったんだ」湯野原がゆっくりと答えた。「挑戦状に注意とヒントが書かかれている理由が」
 湯野原が足を止めた。瀧川も立ち止まる。
「奇妙だと思わないか。最初の〈制限時間は30分です〉が(ちゅうい)なのは分かる。その次の〈郷咲西町から出たらダメです〉が(ヒント)なのも分かる。(ちゅうい)でもいいような気がするけど、(ヒント)でも成立する。だけど最後の〈水分をほきゅうしてください〉が(ヒント)なのはおかしい」
「たしかに、どうみても(ちゅうい)に分類すべき内容だな」
「それなのに子供たちは(ヒント)にした。なぜか? その理由は、これが注意ではなく本当にヒントだからだ」
「なるほどね」瀧川もようやく気がついた。「だからあの子たち、手ぶらで来い、と念を押したのか」
「出発地点に戻ろう」
 二人は来た道を引き返し、アオバデンキまで戻った。
 アオバデンキの前に立って東を見ると青い自動販売機が、西に視線を向けると白い自動販売機が見えた。どちらも清涼飲料水の自販機だ。
「挑戦状の最初のアルファベッドはSだ」
「SIROのS。つまり白の自販機を選べってことだったんだ」
 アルファベッドは自販機の色を表していたのだ。



 白の自販機から三十メートルほど離れた場所に、赤色の自販機が見えた。炭酸飲料で有名なメーカーのものだ。
 2番目のAだ。二人は急いで赤い自販機に向かった。
「ここから、次の自販機が見えるはずだけど」
「あった、あれだ」
 遠くに緑と白の自動販売機が並んでいるのが見えた。MSだ。
 MSの前まで行くと、さらに遠くに青と白の自販機が見えた。
「なるほどね」と瀧川は頷いた。「Aは赤でもあり、青でもあるわけだ」
 瀧川と湯野原は、リレーのように自販機から自販機へと辿っていった。
 赤と青の自販機の前に立って、辺りを見回す。
 交差点の向こう側に濃緑の自動販売機があった。
「よし、見つけた」
 歩行者用信号が点滅を始めていたので、瀧川は早足で交差点を渡ろうとした。
「ストップ」後ろから湯野原の声が呼び止めた。「交差点の向こうは郷咲東町だ。渡ったら俺たちの負けになる」
「そうだった」
 瀧川は慌ててUターンした。
「危ねー。もう少しでゲームオーバーになるところだ」
 ふう、と胸を撫で下ろす。
「だけど、他にグリーンの自販機は見当たらないけどな」
「いや、どこかにあるはずだ」
 AAの自販機の横から細い路地が住宅地の奥に向かって延びていた。日陰になった路地の先は国道と平行に走る別の通りに繋がっており、青葉が繁る樹木の隙間に緑色の筐体がわずかに覗いていた。
「こっちか! 保護色じゃないか。よほど注意して探さないと分からないぞ」
 かすかに湿り気を帯びた路地を抜け、ふたたび明るい道路に出た。自販機の全体が視界に入った。こちらが正解のMだ。
「まったく。こんなトラップをよく見つけたよな」
 二人は感心しながら、コインランドリーの前に並んでいる白と青の自動販売機の前を通り過ぎた。
「さて、残るはひとつだ」
 二つ先の四つ角に公園があり、公園のそばに3台の自販機が並んでいた。赤と白と青だ。
「ということは」
「あの公園がゴールだ」
 公園に近づくにつれて、蝉の鳴き声が高まっていく。
 遊んでいる子供たちの中に、哲と叶と優樹の姿があった。
「お、いたいた」
「よお、待たせたな、皆の衆」
 問題を解き、意気揚々と目的地に辿り着いた瀧川と湯野原は、少年探偵たちからブーイングを受けた。
「おそーい」
「もう待ちくたびれたよ」
「こんなに時間がかかったのに、なんで『どうだ!』って自慢顔なの?」
 子供たちが口々に言う。
「まあ、そういうな」
「制限時間はまだ二分残ってるじゃないか」
 二人は澄まして答える。
 瀧川はほっとした途端、猛烈に喉が渇いていることを思い出した。
「待たせたお詫びに、みんなにジュースをごちそうするよ。好きなものを選んで」
「やった!」
 子供たちは自動販売機の前に駆け寄った。
「どれにしよっかなー」
 赤と白と青の自動販売機の前を行ったり来たりしながら、三人はジュースの品定めを始めた。
「僕は白桃天然水にする」
「おれ、微炭酸スプラッシュ!」
「僕は大空のサワーレモンがいい」
「だから、ここをゴール地点に選んだのか」探偵たちは苦笑した。
 白桃天然水と、大空のサワーレモンと、微炭酸スプラッシュが同時に買えるのは、郷咲西町にある販売機の中で、きっと、ここだけだ。

posted by 沢村浩輔 at 01:20| Web小説

2022年05月09日

麺たちの温泉旅行


 スパゲッティ伯爵と、うどん男爵と、生そば子爵の仲良し三人組。
 彼らは製麺所から出荷される前にささやかな休暇を取り、東北へ温泉旅行にでかけた。
 インターネットで予約したのは、源泉かけ流しの露天風呂。
 湯温はちょっと熱めの98℃だ。
 宿に旅装を解くと、浴衣に着替え、さっそく露天風呂に向かう。
「ああ、いいお湯だ……」
 三人は温泉に浸かりながら、将来の夢を語り合った。
「僕はスパゲッティ・ナポリタンになるつもりだ」
「私は天ぷらうどんがいいな」
「俺は鴨南蛮そばになるのが夢なんだ」
 三人の瞳は未来への期待できらきらと輝いている。
 しかし人生は思い通りにならないものだ。
 料理の世界では、食材自身の希望よりも、食べる人の意向が優先される。
 その掟に従い、彼らはペペロンチーノ、月見うどん、ざるそばとして食卓に供された。

posted by 沢村浩輔 at 01:13| Web小説