2020年10月11日

Web小説ページを作りました


作者が管理しているサイト『抜け道だらけの迷宮』にWeb小説のページを追加しました。

『抜け道だらけのWeb小説』

当ブログで不定期連載中の連作短編へのリンクを、まとめて並べています。
現在のところはまだ二作ですが、少しずつ書き進めていく予定です。
また、これまでに出版した著書のPRページと、ブログで書いた雑文なども同じページにまとめたので、そちらもご覧いただければ幸いです。

posted by 沢村浩輔 at 21:58| Web小説

2020年10月05日

『Once in a lifetime』


【作者敬白】
去年の夏、このブログに『2019年のシャーロック・ホームズ』という短編を載せました。
ライヘンバッハの滝から落ちたシャーロック・ホームズと宿敵モリアーティが、なぜか2019年の東京にタイムスリップしてしまう、という話です。
ずいぶん時間が経ってしまいましたが、ようやく第二話を書きました。
ちなみにこのシリーズ、完結すれば全五話になる予定です。
前作をお気に召した方なら、今回も楽しんで頂けると思います。
(註:なぜホームズが滝から落ちたのかは、コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの回想』もしくは『回想のシャーロック・ホームズ』に収録の「最後の事件」をご参照下さい)


『Once in a lifetime』

  T

 最初に聞こえたのは、激しい風切り音だった。
 続けて全身を押し上げる暴力的なまでの風圧。
 瞬きをしても、周りを見渡しても、何も見えない。
 光ひとつ存在しない暗闇だ。
 だが、何も見えなくても、ここが途方もなく広い空間だということだけは分かった。
 どうやら広大な空間の中をものすごい速度で落ち続けているらしい、とシャーロック・ホームズは思った。
 ホームズが意識を取り戻してから、もう数十秒が経つ。
 憶えているのは、ジェイムズ・モリアーティを抱えたまま、東京の……そう、たしかヒジリバシという橋の上から跳んだことだ。
 ――とすると。ホームズは静かに頷いた。タイムスリップに成功したのだ。
 そうだ、モリアーティはどこだ?
「モリアーティ! 教授!」
 ホームズは暗闇に向かって叫んだが、返事はなかった。
 風圧も風切り音も、先程から一定のままだ。自由落下の最高速度に到達しているのだろう。
 空気は暖かくも冷たくもなかった。乾いても湿ってもいない。季節でいえば五月の夜だ。
 恐怖は感じなかった。
 大事なことは、変化のサインを見落とさないことだ。
 五感を研ぎ澄ましながら、どこまでも、どこまでも、ホームズは落ちていく。
 どれくらい落下を続けただろう。数分か。あるいは知らず眠った気もするから数十分が経ったかもしれない……。
 少しずつ周囲が明るくなり始めた。
 さあ、状況が変わろうとしているぞ。観察するんだ。見逃すな。
 ホームズはぐるりと周囲を見渡した。視界の範囲にモリアーティの姿はない。
 ならば後ろか。ホームズは体のバランスを保つために両腕を広げていた。風を受けている手のひらを、軽く反時計回りに傾けてみた。左に向かって滑らかに体が回転する感覚があった。
 いた! 遙か彼方に一人の男が見えた。距離は100ヤード(約90メートル)くらいか。向こうもこちらを眺めている。モリアーティ教授だ。
 しばらく観察したが、お互いの位置関係に変化はない。同じ速度で落ち続けているのだ。
 これだけ離れていては、声も届かない。
 ホームズは手足を動かして風の受け方を調整すると、ゆっくりとモリアーティに近づいていった。
 二人の距離が10ヤードまで近づいたところで、モリアーティがいつもの不敵な笑みを送ってきた。
「おはよう、ホームズ。気分はどうだね」
「悪くないね」とホームズは答えた。「ライヘンバッハの滝から東京まで、時空を飛び越えたときにも、こうだったかな? 教授、君は憶えているか?」
「いや。気がついたら、東京の街角に立っていた」モリアーティが言った。「だが、あのときも同じ経験をしたはずだ」
「ほう」
「どうやらここは、異なる二つの時代をつないでいる時のトンネルのようだ。我々が暮らしている世界とまったく異質の世界だ。そして目的地に着くと同時に、このトンネルのことを忘れてしまうのだろう」
 ホームズは頷いた。「ああ。僕もそう思うよ」
 猛烈な速度で落下しながらの、奇妙な会話だった。
「ここには時間は存在しないようだが、我々はすでに一時間以上、落ち続けている」モリアーティがつまらなそうに言った。「得がたい経験ではあるが、こうしているのにも少し飽きてきた。まだしばらくこの状況が続くのなら、私は一眠りさせてもらおう」
「寝ている暇はなさそうだよ、教授」とホームズは言った。「我々が落ちていく先を見たまえ」
 モリアーティが視線を下げた。二人の足元の遙か下方に、星のような小さな明かりが出現していた。
 小さな明かりは、たった数秒見つめているあいだに、みるみる大きくなっていった。
「あれがトンネルの出口か」目を細めてモリアーティが呟いた。「まるで太陽に吸い寄せられていく流れ星になった気分だ」
「そういえば、天体の研究が君の専門だったね」とホームズは言った。犯罪の虜になる以前は、モリアーティは教育者であり、極めて優秀な学者でもあった。「君の輝かしい才能を、もう一度科学の発展のために役立てる気はないのか?」
「ないね。犯罪ほど私の心を震わせるものは他にない」モリアーティがあっさり首を振る。「とはいえ、このタイムスリップがどのような原理で成立しているのか、興味を掻き立てられることは認めよう。欧州の犯罪界を統合したあとで、じっくりと考えてみるのも悪くないな」
「その時間はたっぷりとある」ホームズは自信たっぷりに宣言した。「収監された牢獄の中で、心ゆくまで考えたまえ、教授」
「まだ、そんな夢みたいなことを言っているのか」とモリアーティが嘲笑った。「この世にはお前が絶対に勝てない人間が存在することを憶えておくといい」
 憎まれ口をたたき合っている間にも、足元の光がみるみる膨んでいき、夜の底に開いたような穴をくぐり抜けて、二人は目映い輝きの中に飛び出した。
 あまりの眩しさに、思わずホームズは目を閉じた。同時にホームズを包み込んでいる空気の質が変わった。ふたたび目を開けると、世界は一変していた。
 頭上には吸い込まれそうな、どこまでも蒼い空間が広がり、足元の遙か先には雲が点在していた。そして視線を上げると、わずかに婉曲した水平線が世界を二つに分けていた。
 ホームズとモリアーティは、大海の上空にいた。視界の隅々まで空の青さと海の青さが広がっていた。
 しばらく二人は無言で落ち続けた。
「ざっと海抜一万フィート(約3000メートル)というところか」モリアーティが呟く。「とても美しい風景だが、我々が人生で最後に見る景色かもしれないぞ」
 ホームズも反論できなかった。このまま落ちていけば、あと数分もせずに二人は海面に叩きつけられることになるだろう。いかに体術に優れたホームズでも、この速度で着水すれば、生きていられないことは確実だった。
「さて、どうする。名探偵?」こんな状況下にも関わらず、モリアーティは微笑している。「今こそ自慢の脳みそを使って、この苦境から脱する素晴らしいアイディアを考えだしてみたらどうだ」
 しばしホームズは黙考した。
「もし、近くに積乱雲があれば、僕たちは助かるかもしれないが」
「積乱雲?」
「そうだ。夏の午後に、天に向かって盛り上がるように延びていく、巨大な筋肉質の雲を見たことがあるだろう?」
「あるさ。だが、それがどうした」
「僕の研究によれば、あの雲の内部では激しい上昇気流が生じているはずなんだ」
「ふむ」モリアーティは少し考えて言う。「上昇気流によって、積乱雲はあのように高くなっていくわけか」
「確かめたわけではないが、理論上はそうなる」ホームズは頷いた。「だから積乱雲に飛び込めば、僕たちの体は激しい上昇気流にあおられて、相当に落下速度が減殺できるはずだ」
「それは名案だな」モリアーティがにやりと笑って辺りを見回した。「唯一、残念なのは、この付近に積乱雲が見当たらないことだ」
「……そのようだ」ホームズは沈鬱に呟いた。「だが、これで良かったのかもしれない」
「なぜだ?」
「おそらく積乱雲の内部では、激しい雷が頻繁に発生していると考えられるからだ。安易に雲の中に飛び込めば、僕たちは雷の直撃をくらって絶命する可能性がある」
「なるほど」モリアーティが肩をすくめた。「憶えておこう」
 ホームズはまだ諦めていなかった。インスピレーションを求めて、ふわりと体を回転させてみる。
 息を呑むほどに美しい大海原が視界いっぱいに広がり、次の瞬間、どこまでも透明な青空と、その中心に燦然と輝く太陽が、鋭くホームズの目を射た。
 ホームズは何度も何度も、自分を中心にして、空と海をぐるぐると回した。
 大きく両腕を広げ、天動説のように世界を回転させながら、ホームズは考え続ける。
 何か方法があるはずだ。この絶体絶命の苦境を打破する方法が、どこかにあるはずだ。
 世界と一緒に、モリアーティもホームズの周囲を回っている。悪意が人の形をまとったような犯罪者の王は、軽く目を閉じ、腕組みをしたまま落下に身を任せている。一見、投げやりのようでいて、彼もまた頭脳をフル回転させて、事態を打開する方法を探しているのだ。
 そのとき、ホームズの視界の片隅で、何かがきらりと光った。
 あっというまに視界から消えた光の粒が、再び視界を端から端まで駆け抜けていった。
「なんだろう……」
 ホームズは回転を止めて、先程の光を探した。
 あそこだ!
 あれは……鳥なのか? いや――。鳥に似ているが、違う。
 紺碧の大海原を背景に、陽光を受けて銀色に輝く巨大な鳥のような物体が、ものすごい速さで飛んでいた。
「教授」その物体に視線を据えたままホームズが声をかけると、モリアーティが目を開けてホームズの視線をたどった。
「鉄の鳥……か?」モリアーティがわずかに眉をしかめた。「こちらに近づいてくるぞ」
「うむ」ホームズは頷く。両者の速度を推測し、それぞれの軌跡を脳内で描いた。「あと五秒で、ぶつかる計算だ」
「かわせるかどうか、やってみるか?」モリアーティが言った。
「この状況で僕たちにできることはない。それとも神に祈ってみるかね、教授?」
 モリアーティが素っ気なく鼻を鳴らした。「神が私を助ける気になると思うか?」
「そう言うと思ったよ」ホームズは微笑んだ。
 お互いの軌道が交差する瞬間、銀色の鳥があざやかに体をひねった。翼を垂直にして、ホームズとモリアーティを掠めるように通り過ぎた。
 頭上を振り仰いで鳥が飛び去るのを眺めてから、二人はお互いの顔を見直した。
「翼に文字が書いてあったのを見たか?」モリアーティが訊いた。
「アルファベットと数字だ」とホームズは答えた。「N-X-211だ」
「足の代わりに、二つの車輪が付いていた」
「つまり、あの鳥は地面から飛び立ち、地面に降りるわけだ」
「大きさは、27フィートくらいだったな」
「翼の方が長かった。45フィートを超えていたと思う」
「もちろん、あれは――」
「うむ。人間の手で作られた、機械仕掛けの鳥だ」
 ホームズとモリアーティは絶体絶命の状況も忘れて、夢中で話し込んだ。
 ふとホームズの耳に、連続した唸り音が聞こえてきた。唸り音はみるみる大きくなっていく。
 音のする方角を見上げたホームズは、飛び去ったはずの銀色の鳥が猛烈な速度で追いかけてくるのを認めて目を見張った。
 銀色の鳥はあっという間に二人に追いつくと、速度をぴたりと合わせて並んだ。鳥の胴体部分に窓があり、その中に一人の男が乗っていた。男がこちらに向かって、窓越しに何かを叫んだ。
 モリアーティが耳の後ろに手のひらを当て、よく聞こえないぞ、というポーズをとった。
 男がもう一度、身振りを交えて叫んだ。今度は聞こえた。
「翼に掴まれ、と言っている。アメリカ人のようだ」ホームズはモリアーティを振り返った。「選択の余地はなさそうだね、教授」
「アラジンは魔法の絨毯に乗って空を飛んだが」モリアーティが冗談めかして言った。「あの男は銀の鳥に乗って大空を自在に飛んでいる。新しい千夜一夜物語だな」
「そして、もうひとつ分かったことがある」とホームズは言った。「どうやら僕たちは、元の時代に戻り損ねたようだ」
 ビクトリア朝には、人工の鳥を操る人間など存在しない。
「そいつは残念だな」モリアーティがにやりと笑った。
 ホームズとモリアーティは、腕を伸ばして翼と胴体を繋ぐ支柱を掴んだ。

  U

 ああ、飛行機が飛んでいる……と、私は意識の片隅で思った。
 何年もの飛行機乗りの生活ですっかり耳に馴染んだ、長閑(のどか)なプロペラ音が空気を振るわせている。とても良い音だ。きちんと整備されたエンジンは、こういう音がする。
 気持ちが良いな、と私は思う。自分の口元が微笑んでいるのが分かった。不思議だ。先程まであれほど苦しかったのに、今はとても心地がよい。まるで充実した一日を終えて、静かに眠りに落ちる瞬間のように……。
 ……しまった!
 私は愕然として目を覚ました。 
 一瞬で状況を把握した。飛行機の操縦桿を握ったまま、いつのまにか眠っていたのだ。
 あわてて高度計を確認する。高度50フィートを切っていた! 心臓が大きく跳ねた。窓のすぐ下に大西洋の大海原が迫り、波頭の白い泡までくっきりと見えた。
 私は操縦桿を握り直すと、力を込めて手前に引いた。同時にスロットルレバーを押し込む。
 間一髪で、水面すれすれまで下降していた機体が上昇していく。
 危なかった……。私はスロットルレバーから手を離して額の冷や汗を拭った。
 私はいま大西洋を単独で、しかも無着陸で横断するという、まだ誰も成し遂げていない大記録に挑んでいる最中だった。
 実業家レイモンド・オーテグが、ニューヨーク − パリ間を無着陸で飛んだ者に賞金二万五千ドルを出すと表明したのが1919年。今から8年前だ。
 以来、大西洋を無着陸で飛行する最初の栄誉を掴むために、多くの飛行機乗りが挑戦した。
 だが、これまでオーテグ賞に挑んだ飛行士は、ことごとく失敗していた。テスト飛行中に墜落した者、離陸に失敗して機体を大破させた者、そしてパリを発ち、大西洋上で行方を絶った者……。
 あまりの難しさに、保険会社は大西洋横断飛行の成功率は十パーセントと試算した。十人がチャレンジすれば九人が敗退するというのだ。実際、この8年間で成功した者はまだ一人もいなかった。
 そして幾つもの困難を乗り越え、いま私と愛機スピリット・オブ・セントルイス号はパリに向かって飛んでいた。
 昨日の朝、私がニューヨーク郊外のローズヴェルト空港を飛び立ったとき、ライバルたち――リチャード・バードのアメリカ号も、クラレンス・チェンバレンのコロンビア号も出発していなかった。
 現時点で、私がオーテグ賞にもっとも近い位置にいるのだ。
 スピリット・オブ・セントルイス号に乗っているのは私一人だ。機体を少しでも軽くするために、無線機も、六分儀も、パラシュートも積んでいない。誰にも操縦を替わってもらえないし、無線で救助を要請することもできない。六分儀を使って現在地を割り出すこともできず、もし機体が航行不能になってもパラシュートで脱出することもできない。
 私の未来は、無事にパリに着くか、墜落して行方不明になるか、そのどちらかしかなかった。
 さすがに眠気は吹き飛んでいたが、念のために高度をさらに上げた。薄くなった大気に合わせてガソリンの混合比調整レバーをLean(薄め)側に下げた。これでよし、と私はひと息ついた。
 そのとき、私は左前方に何かを認めた。
 最初は鳥だと思った。二羽の鳥が飛翔しているのだと。
 すぐに飛んでいるのではなく、落下しているのだと気づいた。
 あろうことか人間だった。二人の男が、空から降ってきたのだ。
 男たちはあっという間に近づいてくる。
 ぶつかる! 私はとっさに機体を回転させ、ぎりぎりで男たちをかわした。体がかっと熱くなり、一転して冷や汗が吹き出した。
 呆然としたのは一秒か二秒だ。私は機体を宙返りさせて機首を下に向けると、左手のスロットルレバーを全開にして男たちを追った。
 まさか……。操縦桿を握る手が震えそうになった。あの二人はオーテグ賞に挑戦するため、パリのル・ブールジェ空港を出発し、その後連絡を絶ったフランス人飛行士、シャルル・ヌンジェセールとフランソワ・コリではないのか!
 もちろん現実にはあり得なかった。二人がパリを飛び立ったのは、もう二週間近く前である。それに二人が最後に目撃されたのも、ここから遠く離れた場所だ。
 彼らは奇跡的に十日以上、大西洋上を彷徨った後、ついに燃料が尽き、機体を捨てて大空に飛び出したのだ……。
 いかに荒唐無稽だとしても、そう信じたかった。
 この広大な大西洋上空に存在できるのは、飛行機乗りだけなのだから。
 最大出力223馬力の4ストローク9気筒空冷星型エンジンが唸りを上げる。速度計の針が振り切れた。自由落下の最高速度で海に向かって落ちていく男たちの姿がみるみる近づいてくる。
 ほどなく二人に追いつくと、減速して機体を彼らの横につけた。
 窓から身を乗り出し――私は一瞬だけ躊躇った。
 二人を救うことは、今回の挑戦を諦めることを意味していた。
 いいのか? 私は自問する。本当にそれでもいいのか?
 答えはすぐに出た。「構わないさ」と私は呟いた。そのときは、またチャレンジすればいい。もし誰かが先に大西洋を横断したなら、私は太平洋横断をめざそう。まだ人類が達成していないことは幾らでもある。
 だが彼らを見捨てたら一生後悔するだろう。たとえ歴史に残る大記録を達成しても、どんな栄誉を手に入れても、死ぬまで自分を許せないだろう。
 私はコクピットの窓から顔を出して、身振りで「翼の支柱に掴まれ!」と伝えた。
 男たちと視線が合った。彼らは頷くと、手を伸ばして翼の端を掴んだ。それから翼と胴体を斜めに繋いでいる柱をしっかりと握り、片足をかけた。
 これで振り落とす心配は無くなった。私は操縦桿を引いて自由落下を脱し、機体を上昇させた。
 車輪が触れそうだった海面が遠ざかっていく。あと三秒遅ければ海面に激突していただろう。
 安全な高度まで上昇して、水平飛行に戻った。
 飛行機の姿勢が安定すると、男たちは軽やかに支柱をつたって操縦室のそばまでやって来た。そして翼の根元と、機体下部と、車輪を繋いでいる柱のジョイント部分に腰かけた。操縦席の窓から手を伸ばせば届きそうな距離だ。
 私は体を固定しているベルトを外し、窓枠に手をかけて、彼らの顔を見つめた。
 一目見て、二人がヌンジェセールとコリではないと分かった。実際に会ったことはなかったが、コリが隻眼だということは知っていた。いま支柱に掴まっている男たちはどちらも隻眼ではなかった。
 私はがっかりしたが、同時に猛烈な好奇心が湧いてきた。
 彼らは何者なのか。どうして空から降ってきたのだろう。
 私がニューヨークを飛び立ったとき、他のライバルたちは、まだ誰も飛んでいなかった。だから現在、大西洋上にいる飛行機乗りは私一人のはずだ。
 だとすれば、いったい……。
 それでも私は一縷の望みを込めて訊ねた。
「失礼ですが、ヌンジェセールさんとコリさんではありませんか?」
 男たちの顔に、怪訝そうな表情が浮かんだ。
 ああ、そうか。英語で訊ねてしまったからだと気づく。困った。私はフランス語が話せない。同時におや、と思った。なぜか彼らに見覚えがある気がしたのだ。
 一人は長身で鷲鼻の男だった。快活さと思慮深さを兼ね備えた眼差しで、私を穏やかに見つめ返している。ごく少ないが世の中にはこういう眼をした男がいる。冒険家の魂を持った者の眼だ。私は一目で彼に好感を抱いた。
 問題はもう一人の男だった。顔立ちや身のこなしは、深い教養と知性を感じさせた。裕福な家に生まれ育ったのだろう。それなのに、おそろしいほどに不穏な雰囲気を身にまとっている。彼がまぎれもない悪党であることは一目見て分かった。この男の魂は貧困や理不尽な差別によって黒く染まったのではなく、生まれたときから漆黒だったのだ。つまり彼を改心させることは不可能であり、絶対に関わってはならぬ人種だということだ……。
 良くも悪くも、印象深い男たちだった。いったい、この二人はどういう関係なのだろうか。
「いいえ。人違いのようですよ」と鷲鼻の男が落ち着いた口調で答えた。フランス語ではなく英語だった。
 私は赤面した。彼らがフランス人でないことは、見れば分かるではないか。
 鷲鼻の男が冗談めかして訊ねた。「ここでその人たちと待ち合わせを?」
「いえ。彼らは二週間前にパリを発った後、行方が分からないのです」と私は答えた。「ずっと安否が気になっていたので、つい……」
「そうでしたか」鷲鼻の男は真顔になった。「それは心配ですね。では彼らも、あなたと同じ……」
「ええ。フランスの優秀な飛行機乗りです」
「なるほど」と鷲鼻の男は頷いた。「この乗り物は、飛行機というのですね」
 私は驚いて、彼の顔を見返した。
「お二人は飛行機乗りではないのですか?」
「残念ながら」と鷲鼻の男が答えた。「僕も教授も、飛行機という乗り物に乗ったのは今日が初めてです」
「待って下さい。それじゃ、あなたたちは、どうやってここまで来たのです? ……そうか、気球だ。気球で大空を遊覧しているときに、トラブルが起こったのですね」
 飛行機でなければ気球しかない。おそらく彼らが乗っていた気球に重大なトラブルが発生し、飛行不能になった気球から外に投げ出されてしまったのだろう。
「いいえ」と鷲鼻の男が首を振った。「僕たちは気球に乗っていたわけではありません」
「しかし」私は納得できなかった。「飛行機か気球を使わなければ、こんなところに来ることは不可能ですよ」
「当然の疑問ですが」鷲鼻の男が考えながら言った。「困ったな、どう説明すればいいものか……」
「あなたたちが飛行機乗りでないとしたら、どうやってここへ来たのです?」私はもう一度、訊ねた。
「正直に申し上げましょう」咳払いをしてから鷲鼻の男が答えた。「ロンドンに帰る途中で、道に迷ってしまったのです」
「ロンドン?」私は絶句した。「……ここはロンドンから数百マイル離れていますよ」
「では僕たちはいま大西洋上にいるわけか」と男は呟いた。それから我に返った顔になり、「失礼。まだ名前を言っていませんでしたね。僕はシャーロック・ホームズ。彼はジェイムズ・モリアーティです」と自己紹介した。
 私は呆れて二人の男を眺めた。それから笑い出してしまった。こともあろうに世界一の探偵を名乗るとは。彼らの素晴らしいユーモアに、しばらく笑いの発作が収まらなかった。これほど笑ったのは久しぶりだった。
 ようやく私は、なぜ二人に見覚えがあるような気がしたのか分かった。
 子供の頃に夢中になって読み耽ったコナン・ドイルの推理小説だ。本を読みながら思い描いていた名探偵。目の前にいる鷲鼻の男は、少年時代の私が想像していたホームズの風貌にそっくりだったのである。
 もちろん二人が本物のはずがない。だが、それもよかろう、と私は思った。彼らがシャーロック・ホームズとジェイムズ・モリアーティだと主張するのなら、こちらも野暮なことは言うまい。
「お目にかかれて光栄です」と私は言った。「ホームズさん、モリアーティ教授。私はチャールズ・リンドバーグです」
「助けてもらったお礼を言います、リンドバーグさん」とホームズが言い、モリアーティも素っ気なく私に頷いてみせた。
「操縦席を拝見しても構いませんか」とホームズが私に訊ねた。
 私が「どうぞ」と頷くと、彼は右手を窓枠にかけて体を引き寄せ、興味津々の様子で中を覗き込んだ。
 操縦席のあちこちを見回す彼の表情は、ショーウインドウのおもちゃを眺める子供のようだった。
「この飛行機は、あなたの持ち物なのですか?」
「ええ。そうです」と私は言った。「私が特別に注文してつくらせた機体で、スピリット・オブ・セントルイス号です」
「僕は滅多に他人を羨ましいと思わぬ人間ですが、あなたに少々嫉妬を覚えますよ」ホームズは羨望のため息をつくと、コクピットに整然と並んでいる計器類について質問してきた。
 私は訊かれるまま、ひとつずつ説明した。正面右側の速度計、左側のエンジン回転計、その間にある機体の旋回と傾きを示す表示計、その下にある機体のピッチとロールの程度を示すT型の表示計、速度計の上には高度計があり、エンジン回転計の下には燃料計と油圧計が並んでいる。
「機体の制御はこの操縦桿を使って行います」
 私は両膝のあいだから突き出した操縦桿をぽんと叩いた。
「実際にやってみましょうか」
「ええ。ぜひ」
 私は操縦桿を左右に動かした。操縦桿を傾けた方向に、機体がゆっくりと傾く。
「主翼の後ろを見てください。いま操縦桿を左に傾けているので、左翼の後ろ――補助翼が上向きになっています。そこからは見えませんが、右翼の補助翼は逆に下がっています。だから左の翼は下がり、右の翼が上がるわけです」
「なるほど」ホームズはたちまち、その原理を理解したようだった。
「操縦桿は、機体を上昇させたり下降させるときにも使います。こうやって操縦桿を押すと、機首が下がり、操縦桿を引くと機首が上がります。機体の後部に小さな水平の翼があるでしょう。あの翼は尾翼といいます。尾翼の後ろにある昇降舵が、操縦桿の動きと連動して上下に動きます」
「なるほど」ホームズは頷いた。
「速度計を見てください。機首を上向きにすると速度が下がっていくでしょう。だから速度を一定に保つために、上昇するときはこのスロットルレバーを押して、エンジンの出力を上げます」
 私は左手のレバーを押し込んで、エンジン回転計の針を上昇させた。
「右に旋回してみましょうか」
 私は操縦桿を右に倒し、機体を旋回させた。
「旋回するときは、操縦桿だけでなく、足元にあるペダルを踏みます。いまは右旋回しているので、右足でペダルを踏んでいます。ほら、垂直尾翼の方向舵が右へ動いているでしょう。あれで機体を右向きに回転させる力が発生します。飛行機の制御はシンプルです。補助翼、昇降舵、方向舵を動かして、進行方向、上下、左右の三つの軸を回転させれば、上昇も下降も、左右への旋回も思うままに行うことができるのです」
「素晴らしい!」ついにホームズは小さく叫んだ。「実に見事な仕組みです。ところでエンジンというのは、機体の先端で回転しているあの機械のことですね? 蒸気機関ではないようですが」
「ええ。石炭ではなく、ガソリンという液体燃料を爆発させてピストンを動かし、二枚バネのプロペラを回転させて機体を前進させています。エンジン回転計を見ると、いま毎分1900回転で回っていますね」
「なるほど、鳥は風を利用して空を飛ぶが、飛行機はプロペラを回転させて逆に風を作りだしている。だから翼を羽ばたかせる必要がない。見事な発想の逆転だ」
 ホームズは心から感心したようだった。
 私も内心で驚いていた。飛行機の操縦を人に教えたことは過去に何度もあるが、これほど飲み込みの早い生徒は初めてだった。物事の本質を捉える能力がずば抜けているのだ。
 ホームズは振り返って、モリアーティに話しかけた。
「この飛行機は実に秀逸な仕組みで空を飛んでいる。驚くばかりだ。人の手でここまで高度なものが創り出せるのは、おそらくビクトリア朝よりも相当な未来に違いない。いったい僕たちはいつの時代に来たのだろうね、教授?」
「1891年より未来で、2019年より前だろう」モリアーティが不思議な答えを返した。「トウキョウの空を飛んでいた巨大な鉄の鳥は、優にこの鳥の数十倍の大きさだった」
「たしかに」とホームズが顎を摘まみながら考え込む。「今は20世紀のどこかだ。我が大英帝国の産業革命以降の歴史が証明しているように、科学技術の進み方は加速度的に上昇していく。だとしても……。人工の鳥が人を乗せて自在に大空を舞うようになるには、私が生きていた時代から少なくとも数十年の時間を要するだろう」
 ホームズは私に訊ねた。「今は1960年代ではありませんか?」
 私は愉快な気分で首を振った。「いえ、1927年です」
 推理が外れた名探偵は悔しげな表情を浮かべ、長身の悪党は口元をにやりとさせた。
「ところで、あんたは何をしているんだ?」モリアーティが訊ねてきた。「飛行機で大西洋上をのんびり散歩か? 優雅なものだな」
 モリアーティの無神経なひとことに、私はむっとした。誰のために、多大な時間と、情熱と、お金を費やして進めてきた挑戦を諦めたと思っているんだ! だが私は怒りをこらえた。大空を落ちてきた二人を救出することを選んだのは私だ。誰に命じられたわけでもなく、彼らに助けてくれと懇願されたわけでもない。私が自分の意志で決めたことなのだ。
 私はゆっくりと息を吐き、湧き上がった怒りを体から追い出した。そして穏やかに答えた。
「ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしたのは1903年です。滞空時間はわずかに12秒でした。以来たくさんの人が改良を重ねてここまで来ましたが、まだまだ飛行機という乗り物は未完成で、パイロットも未熟です。だから私が今回の飛行で得た知見とデータは、航空機の発展に貢献することになります」
「それは素晴らしい仕事ですね」
 ホームズから賞賛の目を向けられて、私は少し照れ臭くなった。
「大したことはありません。実を言えば、私は飛行機で空を飛ぶことが、他のどんなことよりも好きなのです」
「なるほど」とモリアーティも同意した。「確かに気持ちがいいな」
「そうでしょう」
「だが私が飛行機を手に入れたら」モリアーティが目を細めて言った。「警察に追われている犯罪者を、国境を越えて国外に逃がす仕事を始めるだろう。あるいは、税金を払いたくない金持ちどもの財産を、当局に知られずに他国へ移し替えるビジネスを請け負うこともできるな」
「君という男は、まったく……」
 ホームズは首を振り、気を取り直したように言った。
「僕なら飛行機に旅の道具を積み込み、世界中を見て回るだろう」
 私はますます彼が好きになった。依然として男たちがどこから来たのかは謎だったが、聞き出す時間はたっぷりとある。
「これから予定を少し変更して、お二人を目的地までお送りします」と私は告げた。「ロンドンでもどこでも、希望する場所を言ってください」
 これで良かったのだ、と私は自分に言い聞かせた。少なくとも、シャーロック・ホームズと名乗る気持ちの良い英国人の命を救うことができたのだから。
 ホームズは私の顔をじっと見つめた。そして静かな口調で言った。
「リンドバーグさん。僕はあなたのことを何も知りません。分かっているのは、あなたがニューヨークを出発してパリへ向かっていること。この飛行が仕事や観光ではなく、名誉と栄光を掴むためのきわめて重要な挑戦であること。しかし僕たちを助けたために、その達成が危うくなっているということだけです」

  V

 私は驚いてホームズを見つめた。
「なぜ」とようやく声を絞り出す。「そんなことが分かるのですか?」
「観察ですよ」とホームズは微笑した。「観察しても分からないことなど、この世には存在しません」
「だけど、私は何も話していませんよ。いくら観察したからといって、そんなことが分かるはずがない」
「では、どういう思考を経てその結論に達したのかを説明しましょう」
 とホームズが言った。
「飛行機は、陸路を走る鉄道や、海路を行く船舶と同じ種類の乗り物です。人や荷物を運ぶために存在するはずだ。しかしこの飛行機は一人乗りです。ならば荷物を運搬する用途に使われているのか」
 ホームズはコクピットをぐるりと見回した。
「しかし機体を観察すると、操縦室への乗り込み口以外の扉が見当たりません。つまり荷物を積むようになっていないのです。この飛行機にはあなた以外の人間も荷物も積むことはできません。この飛行機が運べるのは、操縦士一人だけ、ということになります」
 ホームズは私に視線を戻して続けた。
「では、あなたは何の目的で飛行機を飛ばしているのでしょうか。人や荷物の運搬ではなく、気晴らしの遊覧飛行をしているわけでもない。明らかに目的地があり、そこへ向かっています。
 もし、これが政治上、あるいは軍事上の機密を携えた飛行だったら、我々を救出せずに任務を遂行したでしょう。しかし、あなたは躊躇なく僕とモリアーティを助けてくれた。その行動から、あなたが正義感が強く、物事を俊敏に判断できる人であることが分かります。そしてあなたが誰かの命令に従う必要はなく、自分で判断が行える立場にあることも示しています」
 ホームズは言葉を切って、わずかに首をかしげた。
「しかし一方で、あなたは我々を助けたことを後悔しているようだった。それはなぜか?」
 ホームズは手を伸ばして計器板にそっと触れた。
「そこまで推理を進めたところで、僕はこの飛行機が奇妙な構造をしていることに気づきました。機体前面に窓がないのです。操縦室がもっと前にあれば、前面に窓が設置できたはずです。窓の有無で操縦のしやすさがまったく違うであろうことは、飛行機を操縦したことがなくても想像がつきます。それなのに、なぜ前面に窓がなく、操縦室が機体のやや後方に位置しているのか。おそらくエンジンと操縦室のあいだに燃料を積んでいるからです」
 私は息をすることも忘れてホームズの推理に聞き入った。
「液体の燃料は相当な重量でしょう。操縦室の後ろに大量の燃料を積めば、機体の後部が重くなりすぎてバランスを保つことができない。最も安定した場所である翼の下に燃料を搭載するしかなかったのです。しかし、そのために操縦室が後方に追いやられ、前面に窓をつけることができなくなってしまった」
 ホームズは言葉を切ると、もう一度、機体を見回した。
「この飛行機は最初から大量の燃料を積み込む設計になっています。大量の燃料を積んだ飛行機が大西洋上を飛行していれば、途中で給油せずに大西洋を横断しようとしているのだと推測できます」
 その通りだった。
「そこで新たな疑問が浮かびました。いま速度計の針は105マイル(170km/h)を指しています。この速度で巡航すれば、ニューヨークとパリの距離は3600マイルだから約34時間かかります。普通に考えれば34時間のあいだ飛行機を一人で操縦するのは無理です。交替してくれる飛行士が必要だ。にもかかわらず、あなたは一人でニューヨークからパリまで飛ぼうとしている。それはなぜか?」
 ホームズは結論を述べた。
「たった一人で、どこにも着陸せず、大西洋横断を成し遂げようとしているからです。素晴らしい挑戦です、リンドバーグさん」
「待って下さい。大西洋の横断だけならともかく、どうして出発地がニューヨークで、目的地がパリだと分かったのです?」私は目の前の男にかすかな畏怖を覚えた。「ホームズさん、あなたは人の心が読めるのですか?」
「正直に告白すると」ホームズは微笑した。「それを知るのがいちばん簡単でしたよ」
「まさか!」
「だって、この飛行機の尾翼に〈NYP〉と書いてあるじゃないですか。ニューヨークとパリの頭文字だろうと想像をつけるのは、それほど難しいことではありませんでしたよ」
 たしかに答えは最初から書いてあった。完敗である。
「わざわざニューヨークとパリの頭文字を機体に書き入れたのだから、その二つの都市は重要な意味を持っているはずです。これまでに、この二つの都市を単独で、かつ無着陸で飛んだ者は誰もいない。あなたはその最初の一人になろうとしている。以上が僕の推理です」
 私は大きく息をつくと、しみじみと言った。
「今回の飛行を実施するにあたり、私は考えうる限りの準備と対策を練りました。機体を万全に整備すること。それでも機体にトラブルが発生したときの対策。天候の急変にどう対応するか。私自身の体調の管理。ライバルたちの動静。あらゆることを想定しました。だけど……」
 私は二人に語りかけた。
「飛行中に搭乗者が増える、という事態はまったくの想定外です」
「そうでしょうね」とホームズが頷く。「あなたは今、単独でどこにも着陸せずに、大西洋を横断しようとしている。しかしニューヨークを飛び立ったときは一人だったのに、パリに到着したときに三人が乗っていたら……」
「きっと皆は、私がどこかに立ち寄って二人を乗せたのだと考えるでしょう」私は小さく首を振った。「実は無着陸飛行ではなかったのだ、と」
「だったら、なぜ私たちを放っておかなかった?」モリアーティが私に訊ねた。不思議そうな表情だった。「世界初の快挙と、見ず知らずの人間の命のどちらが大事かは考えるまでもなかろう。私なら間違いなく記録を取る」
「そんなことは、できない」私は苦々しく言った。
 本心だった。次回の飛行時に同じ事態に遭遇すれば、私はまた同じ行動を取るだろう。
「パリへ向かう途中でイギリスの南端を通過する予定でした。幸い、燃料に余裕があるので、ロンドンの空港に立ち寄り、あなたたちを降ろします」
「本当にそれでいいのか?」モリアーティは私の反応を楽しむように目を細めた。
「構わない」私はきっぱりと告げた。「またチャンスはある」
「そうかな? 大西洋の横断を目指しているのはあんた一人ではあるまい。明日にでもライバルが大西洋を飛び越えるかもしれん。そうなったら、死ぬほど後悔することになるぞ」
 私はとっさに反論できず、くちびるを噛みしめた。
「記録を諦めることはない」モリアーティが微笑んだ。「この飛行機から私たちを放り出せばいいんだ。それで解決する」
「……何ですって?」私の声は掠れた。
「遠慮することはない」モリアーティが囁くように言った。「正直に言えばいいじゃないか。お前たちがいると邪魔なので、私の飛行機から飛び降りてください、と」
「馬鹿なことを言うな」私は本気で腹を立てた。
 モリアーティは驚いたように目を見張ってみせた。
「では大記録の達成を諦めるのか? 馬鹿げた行為だ。見ず知らずの我々の命よりも、世界初の無着陸飛行の方が大切だろう。そうじゃないか?」
 もはや我慢の限界だった。一喝してやろうと息を吸い込んだ瞬間、
「止めたまえ。モリアーティ」ホームズが厳しい口調で遮った。そして私に優しく言った。「リンドバーグさん。ロンドンに寄り道する必要はありませんよ。もちろん僕たちは君と一緒にパリへ行くつもりはありません」

  W

「しかし」と私は反論した。「イギリスに着陸するか、一緒にパリまで行くか……。他の選択肢はないでしょう」
「僕たちがどこから来て、どこへ行こうとしているのか。まだ説明していなかったね」
 ホームズは私の表情を見守りながら、ゆっくりと言った。
「信じてもらえるか分からないが、僕たちは、一時間ほど前まで日本にいた」
「日本?」私は予想外の答えに面食らった。「あの、東洋の?」
「そう。そして、その前はスイスのライヘンバッハにいた」
「ライヘンバッハですって?」
 私は、二人の顔をまじまじと見つめた。
「率直に言おう。僕たちは時を超えてしまったんだ。日本で出会った若者によれば、これはタイムスリップという現象らしい」
「……タイムスリップ」私は呆然と呟く。ホームズの話は私の理解を超えていた。
「僕とモリアーティはライヘンバッハの滝から落下して、気がつくと128年後の日本にいた。そして日本の首都にある高い橋の上から落ちて92年前の大西洋へ来た。僕たちは高い場所から落ちると時空を超えるのだ。だからロンドンへ帰るために、ここから落ちなければならない。このまま飛行機に乗っていても1891年のロンドンに帰れないからね」
 ホームズは愁いの表情で言った。
「僕と教授はロンドンに帰ろうとしている。だけど、それはこの時代のロンドンではない。僕たちがめざしているのは、今から36年前、1891年のロンドンだ」
 私はしばらく絶句した後で、ようやく言葉を絞り出した。
「冗談を言っているのでは……なさそうですね」
「僕たちがこの翼柱から手を離し、海に向かって跳べば、タイムスリップが起こるはずだ」とホームズが言った。「すでに二度、僕たちは落下によるタイムスリップを経験している。今回も同じ現象が起こるだろう」
「ここから跳べば、タイムスリップが……時を超える現象が、起こるのですか」
「そう。ここから飛び降りても僕たちは死なない。だけど、なぜ僕とモリアーティは時空を超えたのだろう? 僕が知りたいのはその理由だ。なぜ僕たちだけが、落下の最中に時空を超えることができるのか?」
 ホームズは独り言のように繰り返した。「なぜ僕たちだけが?」
 私はからかわれているのだろうか。
 だけど二人が空から降ってきたことは事実だった。
 背筋がぞくりとした。彼の言うことは本当なのかもしれない……。
「あなたたちは本当に、19世紀のロンドンから来たのですか」
「その通りだ」とホームズ。「正確に言えば、1891年のスイスから2019年の日本へ行き、1927年の大西洋にタイムスリップしたことになる」
「なぜ空から降って来たのですか」
 ホームズは考え込んだ。
「それは僕たちにも分からない。分かっているのは、最初のタイムスリップはライヘンバッハの滝から落ちたときに、そして二度目のタイムスリップも日本の首都にある橋の上から落ちたときに起こった、ということだけだ」
「一度目のタイムスリップも、さっきのように日本の上空から下りていったのですか」
「いや、気がついたら街中に立っていた」
「2019年の日本へ行こうとしたわけではないのですね」
「そんなことは想像もしなかったよ」
「そして1927年の大西洋上空にタイムスリップしたかったわけでもない」
「もちろん。僕にとっては縁もゆかりもない場所だ。そもそも僕も教授も、今日、ここを君が飛行機に乗って通りかかることを知らなかった」
「では、どこへタイムスリップするかを選ぶことはできないのですね」
「そうなるね」とホームズは頷いた。「時代も場所も選べない。もし選べるのならロンドンへ戻っているよ」
 私は彼の役に立つ意見を言おうと必死に考えた。
「ライヘンバッハの滝よりも以前に、タイムスリップが起きたたことはないのですか」
「いや。一度もない」ホームズが即座に首を振った。
「モリアーティさんは?」
「もちろん、ない」とモリアーティも答えた。
「……なるほど」私はまた少し考えた。「すると、こういう仮説が考えられますね。二人は元々タイムスリップをする能力を持っていた。ただしタイムスリップを行うにはある条件を満たす必要があった。そしてライヘンバッハの滝から落ちたときに、初めてその条件を満たした。ゆえにタイムスリップが起こった」
「たしかに」ホームズも同意した。「そう考える他はなさそうだ」
 いつのまにか私たちは友人同士のように話していた。
「我々は飛行機のようなものかもしれない」とモリアーティが言った。「あんたの飛行機が空間を自在に飛び回るように、私とホームズは時間を自由に駆け抜けるのかもな」
 私はモリアーティの意見をさらに進めてみた。
「もし二人が飛行機なら、飛ぶための燃料が必要です。そのタイムスリップとやらの燃料は何でしょうか? それに」私は掴んでいる操縦桿をぽんと叩いた。「行き先を決めるための操縦桿がどこかにあるはずです」
「燃料か……」ホームズが呟いた。「僕たちが時を超えるための、燃料は何だろう」
「お二人の話から想像すれば、おそらく位置エネルギーでしょうね」と私は言った。「本来なら落下の際に減っていくはずの位置エネルギーが、なぜか消えずに体内に蓄積され、あなたたちを違う時代へと飛ばしたのです」
「そんなことが、起こりえるのだろうか?」さすがのホームズも茫然となった。「僕は以前、この世に存在するエネルギーについて、火力や水力、風の力、最新の蒸気エネルギーに至るまで、その原理を考察してみたことがある。そこには万古不変の法則が存在していた。だが、僕たちの身に起こっていることは――世界の理に反している」
「だけど」と私は言った。「実際、時を超えたじゃないですか」
「じゃあ、君の言う操縦桿はどこにあるんだ?」
「それは分かりません」私は肩をすくめた。「残念ながら、私は時を超えた経験がないんです」
 答えながら私は夢想した。時を超えるのはどんな気分なんだろう。
「ただ、これまでの結果から考えて、二人は一緒に落ちなければならない気がしますね。つまり、物理的に接触しながら、ということです」
「たしかに」とモリアーティが言った。「ライヘンバッハの滝から落ちたときも、トウキョウの橋から落ちたときも、我々はお互いの体を掴んでいた」
「だが、なぜお互いの体に触れている必要があるんだろう?」ホームズが呟いた。
「これも思いつきだけど、ホームズさんといえば、世界の誰もが認める正義の使徒です。対するモリアーティ教授は悪の化身です。つまり善と悪。言い換えれば電気のプラスとマイナスのようなものです。だとすれば、接触していなければ電気は流れない」
 私は、ホームズとモリアーティを交互に見ながら言った。
「そのときのエネルギーの強さによって、どこまで遠くに飛べるのかが決まるんです」
「なるほど」ホームズが頷いた。「そしてマイナスとプラス、どちらのエネルギーが強いかで、行き先が未来か過去か決定されるのかもしれないな」
 しばし会話が途切れ、エンジン音と風切り音だけが聞こえていた。
「君と話してみて、おぼろげな光明が見えてきたよ」とホームズが言った。「僕たちが東京の橋の上から跳んだのは、彼の地で出会った若者が、最初のタイムスリップが起こったときの条件を再現することを提案してくれたからなんだ。そして実際に、橋の上から教授を連れて跳んだ瞬間、タイムスリップが発生した」
「その若者の言う通りだったのですね」
「そして二度目のタイムスリップで君と出会い、君からも傾聴に値する意見を聞くことができた。僕たちは全く何の知識もないままタイムスリップしてしまった。だから最初はなぜタイムスリップが起こるのか、どうすれば元の時代に戻ればいいのか五里霧中だった。しかし時を超えるたびに、僕たちは出会った人から、この状況を解明するためのヒントを得ている」
 ホームズはモリアーティに言った。
「これは果たして偶然だろうか、教授? なぜ僕たちは大西洋の上空にタイムスリップして、通りかかった飛行機に救助されたのか?」
 モリアーティは黙ってホームズを見返している。
「僕たちはいま、高い場所にいる。タイムスリップを発動させることができる条件を満たした場所に。この世界に高い場所などいくらでも存在する。それなのに、なぜここだったのか」
 ホームズは感慨を込めて私を見た。
「君に出会うためだ。君は僕たちに重要なヒントを教えてくれた。元の時代に戻るための、とても大事なヒントをね」
 頭を上げて大空を見渡し、ホームズは言った。
「僕たちを違う時代に送り込んだのが神の意志なのか、あるいは他の何かなのか、それは分からないが、タイムスリップする先は偶然に決まるのではない。僕たちが元の時代に戻るためのヒントを与えてくれる人のところにタイムスリップしている。そう思わないか、教授?」
「まあ、そうかもしれん」モリアーティが渋々ながら認めた。「あくまで、ひとつの仮説に過ぎないがね」
「まるで夢でも見ているようだ」私は首を振りながら呟いた。子供の頃、コナン・ドイルの小説を夢中で読んでいたら、いつの間にか自分がベーカー街の部屋にいて、ホームズの推理を聞いている気になったことがあったが、今まさにそういう気分だった。
「驚くのはまだ早いな」ホームズが嬉しそうに言った。「最後にもっとも重要な予言をしよう。君はこのままパリへ向かい、人類で初めて大西洋を単独無着陸で横断した人になるだろう」
「しかし……」
「君とはここでお別れだ。だから先に言っておく」ホームズが右手を差し出してきた。「大記録の達成、おめでとう」
 私はホームズの手を握り返した。滑らかで、力強さを感じさせる手だった。
「君に出会えて良かった」とホームズが言った。「ここからジャンプして僕たちが元の世界に戻れるかどうかは分からない。だけど跳ぶしかないだろう」
「少し高度を下げましょうか」私は言った。
「心配は無用だ」ホームズは首を振った。「これから行うタイムスリップで僕たちがどこへ跳ぶのかは分からない。しかし、どこであれ、そこで出会った人から、僕たちはまた何かを得るはずだ。東京の若者が教えてくれたように、そして君が教えてくれたように」
 ホームズは微笑んだ。
「そして、いつか僕たちは、1891年のロンドンに戻れるだろう」
「……ホームズさん」私はそれだけしか言えなかった。
「君には世話になった」彼の声が胸に染み入るようだ。「君が大記録を打ち立て、これからの人生が光り輝くことを、心から願っているよ」
「私も、お二人が元の世界に帰れるよう願っています」私も心から言った。
「ありがとう」ホームズがモリアーティを振り返った。「では、そろそろ跳ぶとしようか」
「くそったれめ」モリアーティが憎まれ口を叩く。
 ふいに周囲がバチバチと音を立て始めた。原因不明の激しい静電気が飛行機を包み込んだ。もはや目を開けていられず、私は堪らず目を閉じた……。
 気がつくと静かだった。聞こえるのはエンジン音と風切り音だけだ。
 そっと目を開け、窓の外に視線を向けた。
 ホームズもモリアーティもいなかった。まるで最初から存在しなかったように。
 私は急いで窓から顔を突き出して、眼下に広がる大海原を見渡した。
「まさか、夢……だったのか」
 私は茫然と呟いた。


 私はフライトを続け、ニューヨークを飛び立ってから二度目の夜を迎えた。
 飛行は順調だった。一度だけエンジンが不調をきたしたが、燃料タンクのバルブの切り替えを忘れていただけだった。それ以外、何のトラブルも起こらなかった。
 セーヌ川を遡っていくと、やがて前方の闇の中に、宝石を散りばめたようなパリの夜景が浮かび上がってきた。
 私は言葉もなく、少しずつ近づいてくるパリの灯を見つめた。
 一夜明ければ、私の未来も、あの街のように輝くだろう。
 だが予想していた高揚感はなく、むしろ静謐な気分が胸を満たしていた。
 私は大西洋上で起こったできごとを誰にも話さないつもりだった。
 いつか自伝を書くとしても、彼らのエピソードを記すことはないだろう。
 だが、あれは夢ではなかった。
 たしかに私は、シャーロック・ホームズとジェイムズ・モリアーティに邂逅し、ひとときを共にした。
 まったく違う時代と場所に生きた彼らと、私の人生が一瞬だけ交差したのだ。
 この先何十年生きたとしても、おそらく二度と経験することはあるまい。
 その不思議さを私は心ゆくまで噛みしめた。
 私と愛機は、エッフェル塔の周囲を一巡りすると、進路を北東に向け、パリ郊外のル・ブールジェ空港を目指した。

                                 (終)
posted by 沢村浩輔 at 00:17| Web小説

2019年12月02日

S君のこと


 僕の友人に、目覚まし時計をセットして眠ると、ベルが鳴る五分前に必ず目が覚めるという男がいた。どれほど疲れていても、ベッドに入る時刻が遅くなっても、寝不足の日々が続いても、五分前になると自然に目が覚めるという。だったら目覚まし時計なんて必要ないじゃないかと問うと、眠る前に時計をセットしないとなぜか寝過ごしてしまうんだ、と友人はとぼけた口調で答えた。
 彼とその話をしたのは、学校の帰りに一緒になり、肩を並べてゆるやかな坂道を駅に向かって歩いているときだった。
 じゃあさ、寝ているあいだに目覚まし時計の電池か切れて、針が途中で止まってしまったら、その場合でもセットした時刻の五分前に目が覚めるのか?
 あるいは、真夜中に誰かが悪戯で彼の部屋に忍び込み、目覚まし時計を持ち去ったら、いったいどうなるんだ?
 ホームで電車が来るのを待ちながら、そんな他愛もない話題で盛り上がった。
 もちろん、そのときのやりとりはすぐに忘れてしまった。どうってことない内容だし、十年近くも昔の高校時代のことだ。
 忘れていた友人との会話を思い出したのは、病院に彼を見舞ったときだった。バイクの事故で意識不明のまま眠り続ける友人の顔を見つめているうちに、いつかのやりとりがふいに蘇ってきて、彼の枕元に目覚まし時計を置いたら、ベルが鳴る五分前に意識が戻るのではないか――。そんなことを真剣に考えた。
 友人は事故から数日の後、一度も意識を取り戻すことなく息を引き取った。
 僕は今、あのときに思い切って目覚まし時計を鳴らさなかったことを後悔している。
 もちろん実行したとしても、彼の意識は戻らなかっただろう。そして僕の非常識な行動は、病院からも彼の家族からも非難されたはずだ。
 それでも試してみるべきだった。たとえ効果がなくても、僕はやるべきだったのだ。

posted by 沢村浩輔 at 23:25| Web小説