2024年12月24日

『探偵と悪党と王〈後編〉』



『探偵と悪党と王〈後編〉』



 ゴルディオン城塞の地下牢は、壁や床から染み出した水が腐ったような臭気を放つ、すこぶる劣悪な場所だった。
 こんなところに閉じ込められたら、誰であっても長くは生きられまい。
「これはひどい……」
 ネアルコスも地下牢の状況を目の当たりにして、さすがに眉をしかめた。そして部下に命じて鼠の死骸を片づけ、蠅を叩きつぶし、椅子とテーブルを運び込ませた。
「数時間のことだ。辛抱しろ」とネアルコスは二人に言葉をかけた。「あとで簡単な食事を届けよう。ここで食べる気になるかどうかは分からんが」
「ご配慮を感謝する」とホームズは礼を述べた。
「では、な」
 厚い樫材の扉が閉まり、外から鍵がかけられた。
「噂通りのいい奴だな。ネアルコスは」ホームズは言った。「僕たちを見つけてくれたのが彼で良かった。他の連中なら、たぶん、こうはいかなかった」
「こうして生きているのは、我々自身の才覚だ。奴のおかげではない」
 モリアーティが素っ気なく返す。だが、その声にかすかな暖かさが含まれているのに気づいたホームズは、口元に笑みを浮かべた。
「何がおかしい」
「いや。何でもない」
 二人は椅子に腰を下ろした。
 しんと静まった牢内に、ときどき天井から滴り落ちた水滴が、床で跳ねる小さな音だけがする。
 ホームズはそっと息を吸い込み、鼻腔の奥で分析してみた。空気中にカビの胞子が漂っている。しかも数種類。あまり体内に入れたくはないが、如何ともできない。
 憂うべき状況である。しかしそれ以上に我慢できないのは、この無為な時間だった。
 偶然の結果とはいえ、いま自分たちは古代オリエントにいる。やりたいことは山のようにあった。それなのに自由を拘束され、地下牢で過ごさねばならないのだ。
 ついに堪えきれなくなり、ホームズは思いの丈をモリアーティにぶつけた。
「偉大なるアレクサンドロス大王に会えた幸運を、僕は神に感謝している。だが、もし望みが叶うなら」ホームズは祈るように言葉を紡いだ。「三百年後のエジプトに行ってみたかったよ。首都アレキサンドリアの街を歩き、街の空気を心ゆくまで味わい、アレキサンドリア図書館を訪れたかった! 古代ローマ軍との市街戦で焼け落ちてしまう前の、古代世界の叡智を集めた、あの図書館に!」
「では、もし神が」とモリアーティが意地悪く訊ねた。「故郷のロンドンに戻るか、アレキサンドリア図書館に行くか、どちらかを選べと言ったら、どちらを選ぶ?」
 ホームズがその問いに考え込むと、モリアーティが微笑した。
「君は私の最高の好敵手だ、ホームズ。だが惜しいことに善人だ。善人は前提を疑わない。なぜ神が与えた二択を疑わないんだ? どちらも所望すれば良いじゃないか。君ら善人はひとつを獲れば、残るひとつを潔く諦めてしまうが、私に言わせればお人好しが過ぎる。両方手に入れるにはどうすればいいか、それを考えるべきだ。たとえ相手が神であってもな」
 いつしかホームズとモリアーティは、自分たちが牢にいることも忘れて、夢中で語り合っていた。
「すでに僕たちは、四度のタイムスリップを経験しているわけだが」ホームズはモリアーティに訊ねた。「時空を跳躍する際の、あの永遠とも思える落下の最中に、君はどんなことを考えている?」
「もちろん、この時代に忌々しい探偵を置き去りにして、私一人が帰還する方法だよ」モリアーティがにやりと笑う。「つまり、秘密ということだ」
「なるほど。正直な答えだ」ホームズは苦笑したが、すぐに真顔になった。「だが、それは無理だと思う」
「ほう、なぜだ?」
「これまでのタイムスリップ現象を観察した上での結論なんだが、おそらく二人一緒でなければタイムスリップは起こらない気がするんだ。君にとっては残念なことに。そして僕にとっては有り難いことにね」
「その結論には、根拠がないようだな」モリアーティが反論する。
「そうだね。あくまでも僕の勘に過ぎない」とホームズも認めた。「しかし、なぜか僕には確信がある。僕も君も、一人では元の時代に戻る方法を見つけることはできないが、二人で対話を続けていけば、いつか答えが天啓のように閃くに違いない、とね」
「いやはや。いつかとか、閃くとか、実に不確実きわまるやり方だな」モリアーティが皮肉な口調で言った。「だが、この世の終わりのような地下牢で黙りこくっているよりはマシだろう。言ってみたまえ」
「ふむ。では思いつくまま語ってみるか」
 ホームズはそう呟くと、静かに語り始めた。
「タイムスリップが、ある世界から別の世界へと通じている暗い水路に飛び込む行為だとすれば、それは海図もコンパスも持たずに、大海原に乗り出す無謀な船乗りと同じだ。
 生きて帰還できる可能性はゼロに近い。つまり単なる蛮勇でしかない、というわけだ。
 多くの人間が賢しらにこう語る。
 未来は誰にも分からない、と。
 なるほど、その通りだ。
 だが過去にタイムスリップした者にとっては、未来が過去となる。
 ならば過去もまた、不確実だと言えまいか?
 私はこの世界の過去を、ほんの一部しか経験していない。
 経験していない過去は、未来と同じく先の見えない霧だ。果てしない好奇心をかき立てる対象だ」
 だが、とホームズは続けた。
「未来と過去なら、私は未来を知りたい。
 言っておくが過去は大好きだ。可能ならこの目で恐竜の生態を見てみたいし、古代ローマの街道を旅してみたい。シェイクスピアと演劇について語りあえたら、どれだけ素晴らしいだろう。
 だが、どちらかしか選べないとしたら、私は未来を選ぶ。未来の街を歩き、人々と話し、その暮らしに触れてみたい。たとえそれが歴史に残らぬ、ささやかな営みだとしても――」
 ホームズが話し終えると、今度はモリアーティが口を開く。
「なるほど、気持ちはよく分かる。だが私は君の意見に与しない。
 私が好きなのは現在だけなんだ。
 2019年の東京に滞在したのはわずかな時間だったが、あのひとときが私にとっての東京だ。
 私は、私が存在する東京を愛する。私がいなくなった後の東京がどうなろうと興味はない。
 君の時間は、あくまでも1893年で止まっている。おそらく君の中では、君がいないロンドンの時間は止まっていて、自分が戻れば、再び時間が流れ始めると思っているのだろう?
 だが私の時間は、私が存在しているこの瞬間だ。
 どういうことか、別の言い方をしようか。
 2019年の東京では君は異邦人だが、私はそうではなかった、ということだ。
 私はあのまま東京で生きていくことができた。日本語も半年あればマスターできるだろう。
 しかし君は違う。たとえ日本語を覚え、友人ができ、仕事と居場所を得たとしても、おそらく君は永遠に異邦人の感覚から抜け出せないだろう。それは日本のせいではない。君自身の精神のあり方の問題だ」
「………」
「だが公正を期して付け加えれば、それが普通の人間だ。だからこそ皆、生まれた国、身につけた言葉、育ってきた文化や宗教、年齢と性別、そして肌や髪の色にこだわる。社会的地位と財産にもね。そうでない私が変わっているのさ」
「どうやら君には」ホームズは苦々しく言った。「悪人かそうでないか、の物差ししかないようだね」
「いや。それに加えて、頭がいいか悪いか、の基準もある」


 そんな風に意見を交わす時間がどれほど流れただろうか。数十分? いや、数時間か。
 壁の高い位置にある小窓から差し込む夕日がいつしか消え去り、窓の向こうは濃紺の星空に変わっていた。
 すでにお互いの表情も分からぬほど、牢の中は薄暗くなっていたが、それでも話題は尽きぬのだった。
 だが今、二人は会話を止めて耳を澄ませた。
 地下牢へと続く階段を、足音が近づいて来たからだ。
 ほどなく錆びた音を立てて扉が開き、燭台を手にしたクロワが二人に微笑みかけた。
「遅くなりました。ご希望の品物がなんとか揃いましたよ」
 ホームズはクロワが未来から持ち帰ったチャトラジの盤と駒を点検し、満足して頷いた。
「クロワ。君にはどれほど感謝しているか」心を込めて、礼を言った。
「それは良かった。健闘を祈ります」
「ありがとう。ところで」とホームズは言った。「これは四人制のゲームだ。当然、プレイヤーが四人必要になる。僕の言いたいことが分かるだろう?」
「いいえ。さっぱり」クロワが首をかしげた。「では、私はこれで――」
「ゲームをするのは、アレクサンドロス、僕とモリアーティ、そして君だ」
「私に王を負かすゲームへ加われ、と?」クロワが足を止めて驚いたように振り返った。「謹んでお断りします」
「悪いが参加してもらうよ」ホームズは微笑んだ。「通訳が同席していないとゲームのルールを説明できないし、そもそも王と会話ができないじゃないか」
「……やれやれ」クロワが諦めたようにため息をついた。「きっとそういうことになると思っていましたよ」




 白熱した議論の最中に、ふとモリアーティが黙り込んだ。
「どうしたんだね、教授?」
「気づいているか、ホームズ」とモリアーティが言った。「この時代に来てから、私たちは一睡もしていないことに」
「たしかにそうだ」ホームズも頷く。「昨夜もこんな風に話し込んでいて、朝まで過ごしたんだった」
「我々は大英帝国から遠く離れてここにいる」モリアーティが愉しげに牢を見回した。「辺境の地で生きるための心得がある。『食べられるときに食べ、眠ることができるときに眠れ』だ」
「ああ、聞いたことがある。誰の言葉だったかな……」ホームズは首をかしげて考えていたが、やがて小さなあくびをした。「見たまえ。君がそんなことを言うから、眠たくなってきたじゃないか」
「……実は、私もそうだ」
「では少し眠って、すっきりした頭脳でアレクサンドロスとの対戦に挑もう」
 ホームズとモリアーティは椅子に背中を預け、足を組み、腕を組んで、静かに目を閉じた。
 だが二人が眠りに落ちる前に、一人の男が牢を訪ねてきた。どこか老成した雰囲気をもった醒めた眼差しの若者で、クロワを連れている。
「この方は、プトレマイオスです」クロワが男を紹介した。「ぜひお二人に会いたいというのでお連れしました」
 プトレマイオスだって! ホームズは眠気など吹き飛んでしまった。後に古代エジプトのプトレマイオス朝を創設する人物である。
 プトレマイオスの従者が二人に熱いお湯の入ったカップを手渡した。
「君たちは未来から来たのか?」
 カップに口をつける前に、プトレマイオスが訊いた。淡々とした物憂げな声だ。
「ええ」とホームズは頷いた。「その通りです」
「ならば、私の未来を知っているだろう。それを教えてくれ」
 ホームズは小さく首を振った。
「残念ながら、お答えするわけにはいかないのです」
「なぜだ?」
「未来は誰にも分からない、という前提で世界は成立しているからです」とホームズは説明した。「私は未来を知っています。ですが、それを教えれば、前提が変わり、未来も変わってしまうのです」
 じっと耳を傾けていたプトレマイオスが、なるほど、と呟いた。「そうかもしれん。いや、きっと、そうなのだろう」
 ホームズはプトレマイオスの理解力の鋭さに舌を巻いた。
「では、当然ながら」プトレマイオスがゆっくりと訊ねた。「他の者にも未来を告げることはしないのだね?」
「もちろんです」
「アレクサンドロスが命じたとしたら?」
「話せません。たとえ殺されたとしても」ホームズはきっぱりと言った。
「そうか。よく分かった」プトレマイオスは人差し指を曲げて従者を呼んだ。「すまない、私があれこれ訊ねたので、せっかくの湯が冷えてしまった。熱い湯に入れ替えさせよう」
 プトレマイオスが去った後、ホームズは肩をすくめた。
「きっと最初のお湯には毒が入っていたね」
「だろうな」モリアーティも同意した。「もし我々が他の側近たちを利する可能性があれば、躊躇なく殺すつもりだったのだろう」
「アレクサンドロスにはまだ子供がいないから、王の身に不測の事態が起これば、誰もが後継者候補になれる。重臣たちは皆、そのときにどうするかを考えているはずだ」ホームズはにやりと微笑んで湯をひとくち飲んだ。「おかげでプトレマイオスに毒殺されかけるという貴重な経験ができたよ」
「実に冷酷で頭のいい男だったな」モリアーティもうまそうに湯をすすった。「だからこそ大王の後継者争いを生き延びて、エジプトに自分の王朝を建てることができたのだろうな」
 結局二人はネアルコスが迎えに来るまで、一睡もせずに話し込んでしまった。
「準備はできているか」とネアルコスが確認する。
「ええ。いつでも始められます」
「では案内する。ついてこい」




 王が試合場所に選んだのは、街を一望できる城塞上階のテラスだった。
 テラスの中央には、円卓と四脚の椅子が用意され、周囲にかがり火が焚かれている。
 ホームズは円卓の上に盤を置き、緑、青、黄、白の王の駒を、盤の中央に並べた。
「他に必要な物はないか」とネアルコスが訊ねた。
「ありがとう。これで充分です」とホームズが答えた。ここへ来る前にホームズとモリアーティは、小刀を借りて髭を剃り、湯を浸した布で体を拭いたので、すっきりとした表情だ。
「ほう、いい眺めだ」モリアーティが手すりに肘をついてゴルディオンの市街地を見下ろした。
「もしかして」ホームズはネアルコスに訊ねた。「昨夜、王が流れ星を見たというのは、この場所ですか?」
「そうだ」
「私たちが落ちたのは」モリアーティが仄かに明るさが残る西の丘を指さした。「あの向こう辺りだな」
 どこからか賑やかな声が近づいてきた。と思う間もなく、
「待たせた」
 とアレクサンドロスがテラスに入ってきた。重臣たちを引き連れている。
 王が上座に着くと、三人も腰を下ろした。
 アレクサンドロスとクロワ、ホームズとモリアーティが向かい合うかたちだ。
 テーブルを挟んで対峙したアレクサンドロスは、眩しいほどの自信に満ちていた。
 この若きマケドニア王が、僅か十年でギリシアからインドまで跨がる大帝国を築き上げ、三十二歳で亡くなることを、ホームズは知っている。
 もちろん当のアレクサンドロスはそんな未来を知る由もなく、テーブルの上に置かれた盤面と駒が収められた小箱を興味深げに眺めていた。
「これがチャトラジか。なかなか面白そうだ。さっそく始めよう」
「まずは、お好きな色をお選びください」
 王は迷うことなく白を選んだ。モリアーティは青、クロワは黄、ホームズは残った緑をとった。
「私と同じように、駒を並べていただけますか」
 ホームズは8x8マスある盤面の左下から、右に向かって船、馬、象、王を置き、二段目に4つの兵を並べた。
 王が同じように並べると、駒の名称と動かし方を説明した。
 @王……8方向に1マスずつ。チェックを受けたとき、隣り合っている自分の駒と位置を入れ替えることができる。
 A象……縦か横に好きな数だけ動かせる。
 B馬……上下左右に2マス移動した後、さらに直角方向に1マス動く。
 C船……斜め方向に2マス。移動先の敵駒だけでなく、跳び越えた敵駒も捕獲できる。
 D兵……前に1マス。ただし敵駒を捕獲するときは斜め前にも動ける。
「一人ずつ順番に、自分の駒をひとつ動かします。動かした先のマスに相手の駒があれば、その駒を捕ることができます。ただし自分の駒があるマスには移動できません。そして自分の順番のときに駒を動かさない選択もできます」
「相手の王を捕獲すれば勝ちということだな?」
「はい」
「分かった」
「ゲームを始めるにあたり、提案がございます」とホームズは言った。
「言え」
「最初のゲームは練習として勝敗はなし、二度目を本番としてはいかがでしょうか」
「よかろう」
「あとひとつ。私とモリアーティが勝てば放免される約束です。必然的に私たちはお互いを助け合うことになります。そこでクロワはアレクサンドロス様を補佐する役割を担うことにされてはいかがでしょうか? 私とモリアーティ、アレクサンドロス様とクロワがそれぞれチームを組んで対戦すれば、公平になるかと存じます」
「たしかにそうだな。よし、それでいく」


 最初のゲームでは、王はじっくり時間をかけて考え、慎重に駒を動かした。
 驚くことに、アレクサンドロスは一度も凡手を指さなかった。
 生まれて初めて経験するゲームなのに、驚異というしかない。
 ホームズはいつしか首筋に冷たい汗をかいていた。現時点で自分とモリアーティが何とか勝っているのは、豊富なチェスの経験があるからだ。アマチュアとしてトップレベルの強さだと自負している。それなのに、たった一度練習しただけで、王は二人と対等に渡り合っていた。モリアーティの表情も苦い。彼が繰り出した相当に高度な〈嵌め手〉が見抜かれてしまったのだ。
 ホームズは、人類の歴史の中でも五本の指に入るといわれる天才戦術家の冴えを見せつけられる思いがした。
「王は本当にこのゲームを初めてなさるのですか?」ため息をつきながらホームズは訊ねた。「すでに百戦錬磨の戦い方でいらっしゃいます」
「私はこのゲームを戦争のつもりでやっている」アレクサンドロスが答えた。「戦争とは一度きりの勝負だ。負ければ次はない」
 ホームズもモリアーティも、言葉を返せなかった。
「よし、練習はもうよい」アレクサンドロスが手を止めて言った。「おおよそのコツは掴めた。まだ途中だが、このゲームを終了し、本番を始めよう」
 四人は駒を元の位置に並べ直した。
 駒を並べながらホームズは考える。先のゲームでホームズは本気を出していない。おそらくモリアーティもそうだ。二人は八割の力でゲームを進め、ほぼ互角の試合だった。もちろん次は全力で行く。それでも勝率は……六割あるかどうかだろう。




「ずいぶん慎重な戦い方でいらっしゃいますな」とモリアーティが言った。ややぞんざいな口調だ。挑発の意図もあるのだろう。実際、ホームズもモリアーティも、ほとんど王の駒を獲得できていなかった。盤上には風が吹かぬ戦況が続いていた。
 アレクサンドロスはちらりとモリアーティを眺め、盤面に視線を戻した。
「当然だ。私が動かしている駒はマケドニア兵だ。無駄死にはさせられぬ。させなくても、勝てる」
 そして王は初めてパスをした。指す手に困ったゆえのパスではない。ほぼ完璧な防御を敷いた上で、相手を誘っているのだ。
 そう、〈ほぼ〉完璧だった。アレクサンドロスの陣形にはかすかな綻びがあった。その綻びにホームズは気づいたが、それが意図的なものかどうかが分からない。
 通常ならホームズは躊躇うことなくその弱点を攻める。しかし相手は戦争の天才、アレクサンドロスである。罠である可能性が充分にあった。
 ホームズは考えた末、罠だと判断してパスを告げた。予想通りクロワもパスした。順番はモリアーティに回った。
 モリアーティは内心でひどく腹を立てていた。ここまでホームズの駒の動きから彼の作戦を読み取り、彼の意図を補強する手を指してきた。その結果がこれだ。ホームズの作戦は手堅く、勝利に向かい一歩一歩進んでいた。
 だがモリアーティはその堅実さが気に入らなかった。ホームズの指し手には遠慮があった。たしかに目の前の若者は並の人間ではない。私がこれまで出会った中でもっとも大きな器量を備えた者かもしれない。その男が勝てば命を助けると約束した。そして、このままゲームを進めれば、確実に我々が勝つ。
 それなのに、なぜ僅差で勝とうとする? 臆したか? 絶対君主の機嫌を損ねるのが怖いのか? 私は違うぞ。私はアレクサンドロスを容赦なく打ち負かしたい。実戦では生涯負けなかった天才をこてんぱんに負かして、くちびるを噛みしめる姿を見てみたいのだ。だがこのままでは、その願いは叶えられそうにない。
 モリアーティは思う。シャーロック・ホームズは世評通りなかなかに気難しい男だが、一緒に旅をして分かった。私の方が遙かに狷介な魂を持っている。
 名探偵よ、私がゲームの最中、何を考えていたか分かるか?
 考えていたのは、クソ生意気な王をこの場で殺し、三万を超えるマケドニア軍の追撃から逃げ延びる方法だ。そんなことは不可能だと思うか? ところが、私なら逃げ切れる。その方法を知りたいか? 知りたければ私の前に跪いて教えを請うがいい。
「パスします」内心の怒りを毛ほども出さず、静かにモリアーティは告げた。さて、どうする、アレクサンドロスよ。これで動かざるを得なくなったぞ。
 しかしアレクサンドロスの反応は、モリアーティが予想していなかったものだった。
 王の双眸から、みるみる興味の光が消えていったのだ。
「たしかに面白いゲームだ」とアレクサンドロスは言った。「だが所詮は遊びに過ぎぬ。勝っても負けても、私の魂は冷たいままだ」
「恐れながら、まだ二度目です」王が態度を一変させたことに戸惑いながら、ホームズは言葉を返した。「それを判断するには早すぎませんか」
「私は一度目のゲームで、そう感じていた」
「お気に召しませんでしたか」
「そうではない。面白いと言ったぞ」アレクサンドロスがホームズに訊ねた。「私が考えていた次の一手が分かるか?」
 慎重に考え、ホームズは答えた。
「船を私の陣地まで進めるのではないか、と予想しておりました」
「良い手だな。お前はどうだ、悪党よ」
「象を用いて私の馬を狩る……。そう考えていました」とモリアーティが答えた。
「それも悪くない。では、人ならざる者よ、お前はどう思う?」
 バレていたのか! クロワの顔が青ざめた。だがすぐに穏やかさを取り戻して答えた。
「私は駒の動かし方を知っている程度でございます。王のお考えなど想像も及びません」
「上手く逃げたな。まあよい。私が指したかったのは」
 アレクサンドロスが手を伸ばして王の駒をつまんだ。そして1マス先へ置く。「こうだ」
 三人は沈黙した。まったく意味のない一手だったからだ。
「そう、王が動いても状況は何も変わらぬ。この盤上では、な」
 アレクサンドロスがつまらなそうに言った。
「現実の戦いなら、私が動けば即座にパルメニオンが、クラテロスが、フィロータスが私の意を汲んで動き出す。そして長年の鍛練を積んだ兵たちが、彼らの指示を体現して敵を打ち倒す。その瞬間、マケドニア軍全体が私の手足となる。そのときの高揚は何物にも代えがたい。だがこのゲームでは、駒は意志を持たぬ。何度戦いを重ねても、彼らはまったく成長しない。それが退屈でならぬのだ」
 アレクサンドロスの心はすでに盤上にはなく、次の戦場へと飛んでいるようだった。
「マケドニア軍は戦うほどに強くなる。だから私は命がある限り前に進み続ける。退くという選択肢はない。時の流れも然り。戻ることはできぬ。人の一生も同じだ」
 ホームズはアレクサンドロスの言葉に胸を貫かれた。
 確かに若き王の言う通りだった。
 この世界にいるならば、その法則からは何人も逃れることはできない。
 だが――。
 タイムスリップはこの世界とは違う時空を通過する。
 そこでは、この世界の法則は通用しない。
 別の法則で成り立っている場所なのだ。
 だから1893年のロンドンに戻るためには、アナザーワールドの法則に従う必要がある。
 僕たちはあの世界にいるとき、常に落下していた。
 無限にも思える広大な空間を落ち続け、次の場所にたどり着く。
 つまり、アナザーワールドでは落ちることは即ち進むことなのだ。
 ホームズは呆然となった。
 何てことだ! 僕たちは1893年のロンドンに行こうとしていた。
 そうじゃない。逆だ。
 行くのではなく、戻るのだ。
 僕たちは出発地点に戻らなければならなかったのだ!
 僕たちの体が静電気を帯びるとき、それはタイムスリップが可能になったサインだ。
 その合図を受けて高所から飛び降りることで、タイムスリップを発動させる。
 しかし、その方法では進むことしかできない。戻らなければならないのに、だ。
 戻るためには、上昇しなければならなかったのだ。
 当然の結論だ。自由落下で〈進む〉のなら、同じ速度で上昇すれば〈戻る〉はずだ。
 それが正しいかどうかは、実際に試してみるしかない。
 だが、どうやって?
 ホームズの脳裏に、スピリット・オブ・セントルイス号の姿が浮かんだ。
 ああ、飛行機があれば……。
 今なら分かる。あのときが〈戻る〉絶好のチャンスだったのだ。
 それなのに僕たちは、その千載一遇の機会をみすみす逃してしまった。
 大英帝国の首都、ロンドンの光と影を代表する才能が揃っていたにもかかわらず!
 くそ、どうすればいい?
 いや、答えは明らかだ! ホームズは自分の脳細胞がスパークするのを自覚した。彼は軍船のコマを取り上げると、三つ先のマス目に置こうとした。
 その手をモリアーティが押さえた。
「待て、ホームズ。なぜだ?」
 モリアーティの問いは当然だった。なぜなら、そこに軍船を置けば、十三手の後、ホームズとモリアーティは負けることになるからだ。
「理由を訊きたいかね、教授?」
「我々は負ければ死ぬことになる。説明の義務があると思うが」
 二人のやりとりを、クロワは凪いだような静かな眼差しで、アレクサンドロスは双眸に好奇心を取り戻して見つめていた。
「分かった」ホームズは頷いた。「クロワ。王に作戦会議のために少し時間をいただきたい、と伝えてくれ」
 クロワの言葉を聞いたアレクサンドロスは、「許可する」と言った。「命のかかった真剣勝負だ、遠慮なくやれ」
「ありがとうございます」ホームズは礼を述べ、モリアーティに向き直った。「とはいえ、王を長く待たせるわけにはいかない。ひとことで説明するぞ」
「そうしてくれ」
 モリアーティは、ホームズをじっと見つめた。
 アレクサンドロスは、我々がゲームに勝てば命を助けると約束した。
 だがホームズは意図的に負けようとしていた。
 最善手を指し続ければ勝てるのに、奴は勝利を自ら手放そうとしている。
「なぜだ?」とモリアーティは問うた。
「もう一度、空を飛びたいからさ」とホームズは答えた。
 モリアーティは、その言葉の意味を考えた。そしてはっとした。
 そうか。そういうことか。
 ならば、とモリアーティは覚悟を決めた。私も協力せねばなるまい。
 問題は、鋭敏な王に気づかれずに、この計略を進めることができるかどうか、だ。
 さすがのモリアーティも自信はなかった。だが、実に面白い。




 こうして十三手の攻防の後、決着がついた。
 勝負はアレクサンドロスとクロワ組の勝利に終わった。
 だが、勝利したにもかかわらず、アレクサンドロスはどこか不機嫌そうに黙っている。
 代わりにへファイスティオンが沈黙を破った。
「何をしている」と彼は護衛の兵に命じた。「王の勝ちだ。この二人を拘束せよ」
 アレクサンドロス最側近の命令に、兵士たちが弾かれたように動いた。
「さあ、来い」兵士が二人の肩に手をかけ、乱暴に立ち上がらせる。
「待て」とアレクサンドロスが言った。
 兵たちが慌てて手を放す。
「お前たちにもう一度だけ、チャンスをやろう」
 王はホームズを見つめながら言った。
「お前は謎解きの専門家だという。ならば丁度いい。私はいま、ひとつの問題に直面している。これまで長きに渡り、誰ひとり解くことができなかった難問だ」
「どのような問題でしょうか」ホームズが訊ねた。
「実物を見ながら説明しよう」アレクサンドロスは席を立った。「ついてこい」
 アレクサンドロスが向かったのは、城塞に隣接した丘の上にある、ゼウスを祀った神殿だった。神殿の一室に、ミダス王が奉納したと伝えられる荷車が保管されていた。
 この荷車の轅(ながえ:馬車の前方に突き出た二本の棒)には、ミズキの樹皮でできた紐が固く結ばれており、この紐を解いた者はアジアの王になるという伝説があった。しかし結び目があまりにも複雑なため、荷車が奉納されてから数百年が経つが、未だこの結び目を解くことができた者はいなかった。
「この結び目を解く方法を教えてくれ。そうすれば、お前たちの命を助けよう」
 ホームズは興味深げに荷車を眺めてから、王に視線を戻した。
「答えはすでに」ホームズは厳かに言った。「王の胸の内にあります。お心のままに振る舞えばよろしいかと存じます」
 しばらくホームズを見つめていたアレクサンドロスが、モリアーティに視線を移す。
「お前も、その答えでよいのか?」
「はい」とモリアーティも答えた。
「……そうか」と言うと、アレクサンドロスは荷車の前に立った。そして数秒のあいだ荷車の轅を固く結んだミズキの樹皮を見下ろした。その結び目は複雑怪奇で、目を凝らしてみても、どう解けばいいのか見当もつかなかった。
 物音ひとつない静寂が流れる。
 居並ぶ重臣たちが、息を殺して王の後ろ姿を見つめている。
 アレクサンドロスが軽やかに、そして無造作に剣を抜き、振り下ろした。次の瞬間、ふたつに切断された紐が、音もなく床に落ちた。
 王はカチリと音を立てて剣を鞘に戻すと、こちらに向き直った。
「おお!」へファイスティオンが声を上げて、王に駆け寄った。「お見事です、アレクサンドロス」
 へファイスティオンが神殿の天井に向かって叫んだ。
「ミダス王よ、ご覧あれ。マケドニアのアレクサンドロスが見事に謎を解いたぞ!」
 全員の胸にその言葉が染みこみ、じわじわと感動が広がっていく。
「伝説では、この結び目を解いた者はアジアの王になるという」プトレマイオスが皆に向かって言った。「今日、まさにアレクサンドロスはマケドニアのみならず、全アジアの王となったのだ」
「うおーっ!」歓声が弾け、部下たちが王を取り囲んだ。「アジアの王、アレクサンドロス! 万歳!」
 アレクサンドロスは片手を上げて、部下たちの賛辞に応えた。
 少し離れたところでは、王の伝記作家たちが、巻紙の上にペンを走らせ始めた。王の言動を嘘にならぬ範囲で、いや、ときには多少の彩りも加えながら、王の叡智と勇敢さと威厳を、修辞の限りを尽くして書き綴るのである。そして、このゴルディオン伝説の一幕は、王の数多い英雄譚の中でも指折りのエピソードのひとつになるだろう、と作家たちは確信していた。当然ながら彼らの筆致は熱を帯び、最大の読者であり批評者である王に気に入られるよう、記述の取捨選択に創意工夫が凝らされた。その結果、これらの伝記を読み比べた後世の歴史家を、「お前ら全員その場にいたんだよな? それなのに、どうして伝言ゲーム並みに内容がばらけてんだよ?」と嘆かせるほどの、多彩なバリエーションが展開されたのである。
 話が逸れた。元に戻そう。


 部下たちの高揚が静まるのを待って、アレクサンドロスが歩き出した。取り囲んでいた一群が左右に分かれる。
 王はホームズとモリアーティの前で足を止めた。
「残念ながら、お前が謎を解いたとは言えぬ」
「はい。解かれたのは王です」
「ならば――」
 一瞬、言い淀んだアレクサンドロスが続けた。
「明日の朝、約束通り、お前たちを処刑する。よいな?」
「承知いたしました」とホームズが言った。「ですが、ひとつお願いがございます」
「言ってみろ」
「王は素晴らしい攻城兵器をお持ちです」
 マケドニア軍には、先王フィリッポス二世が開発した最先端の攻城兵器があり、アレクサンドロスは地中海沿岸の都市と戦う際に、石や大弓を放つ攻城兵器を存分に活用していた。
「持っている。それがどうした」
「あの投石機で、我々を空高く飛ばしていただきたいのです」
「なんだと?」アレクサンドロスが意表を突かれたように黙った。対照的に、成り行きを見守っていた背後の者たちはざわめいた。
「……なんと、正気か?」誰かの囁き声がする。
「あれは巨大な石の塊を城壁に叩きつけるためのものだ」と別の誰かが言う。「人など飛ばせば、遙か上空に舞い上がり、そのまま地面に激突して血と肉の破片と化すぞ」
「そのようなむごたらしい死に様を、自ら望むとは……」
「異国の者どもの考えることは、理解できませんな」
「いや、まったく」
 アレクサンドロスは訝しげにホームズを眺めていたが、その表情がわずかに動いた。王の目に感心したような、呆れたような色が浮かび、口元だけで微笑した。
「分かった。その望みを叶えよう」
 一同が再びどよめいた。
「お前たちは最後まで私を楽しませてくれた」アレクサンドロスは言った。「その礼はする」
 ホームズとモリアーティは、ふたたび地下牢に移された。
 二人はお互いに離れた場所に腰を下ろし、しばし物思いに耽った。
「ホームズ」とモリアーティが訊いた。「さきほど大王は礼をする、と言ったな? 礼を言う、ではなく」
「たしかに礼をすると言ったね。言葉通りの意味だろう。それができるのは」ホームズは敬意を込めてその名を口にした。「アレクサンドロスだけだ」




 翌朝、ゴルディオンの郊外に、二台の投石機が据えられた。
 よく晴れた、風の強い朝だった。
 投石機から少し離れた小高い丘の上に、ホームズとモリアーティは立っていた。
 これから自分を空高く放り上げることになる投石機をしばらく見つめた後、ホームズは背後を振り返った。
 正面にアレクサンドロスがいた。王の両側に重臣たちが並んでいる。大半の者は面白い見世物を楽しむ顔だ。プトレマイオスは無表情で、ネアルコスは痛ましそうな目でこちらを見ていた。そして伝記作家たちは見晴らしのいい場所に陣取り、巻紙とペンを手にこれから起こるできごとを書こうと待ち構えている。
「ひとつだけ心配なことがある」ホームズはクロワに言った。「伝記作家は僕たちのことも書き留めている」
「ええ。それが彼らの仕事ですから」
「僕たちの存在が後世に伝えられるのはまずくないか?」
「ご心配なく。彼らの記録の中から、お二人に関する記述だけがいつのまにか消えてしまい、後世に残らなかったのです。不思議なことですが」
「とぼけるな」モリアーティがにやりと笑う。「お前のしわざだろう」
「さあ。どうでしょうか」
「シャーロック・ホームズ。ジェイムズ・モリアーティ」とアレクサンドロスが声をかけた。
 二人は王に向き直り、続く言葉を待った。
「お前たちの旅は、これで終わりではあるまいな?」
 周囲の者には奇妙に聞こえる問いだろう。なぜか王の声にはかすかな願いが込められているように思えた。
「私たちは、未だ旅の途上にあります」とホームズは答えた。
「そうか」アレクサンドロスは微かな安堵を浮かべて頷くと、きびきびとペルディッカスに命じた。「この二人を投石機で飛ばせ」
 ホームズとモリアーティは兵に槍を突きつけられたまま、投石機に向かって歩いて行く。
「教授。君に謝らねばならない」ホームズは前を向いたまま言った。「正直に言うよ。僕の仮説が当たっている確率は甘く見積もっても一割だ。つまり九割の確率で死ぬことになる。その危険な賭に、君を巻き込んでしまった」
「勘違いするな、ホームズ。私が今ここにいるのは、私自身の意志だ」モリアーティも前を向いたまま答える。「ついでに言えば、私の見立てでは、お前の仮説は九割当たっている。ならば死ぬ確率は一割に過ぎん。こうして投石機で飛ばされるのは悪い選択ではない」
 ホームズは微笑んで言い返した。「君が僕の分析にそこまで信頼を置いてくれるとは、光栄の至りだね」
 二人は投石を載せる台に上がり、両手で木枠を握りしめた。
「次に目が覚めたら、倫敦に戻っているかな?」
「それでは理屈に合わない。我々はここまで四度も時を超える旅をした。一度でスタート地点に戻るのは虫が良すぎる」
「ハハ。たしかにそうだ」
 ふいに二人の全身が静電気に包まれる。
「よし。放て!」ペルディッカスが射出兵に命令した。


 投石機によって打ち上げられたホームズとモリアーティは、ゴルディオンの空高く放物線を描いて飛んでいき、地面に激突する寸前で眩い光を放ちながら消えた。
「ああ……」
 その瞬間、ネアルコスは悟った。遙かな未来から時を超えてやって来た二人が今、別の時代に旅立って行ったのだと。
「……そういうことか」ネアルコスは、なぜホームズが攻城兵器で飛ばしてくれと望んだのか、ようやく理解した。二人が命を賭けた勝負を挑み、わざと負けた(それはネアルコスにも分かった)ことを不思議に思っていたが、そうではなかった。負けなければならなかったのだ。
 そして――。ネアルコスは若き王の横顔をそっと見つめた。アレクサンドロスは私よりもずっと早く、ホームズたちの意図に気づいていた。
「この世界には、時間を旅する者がいる……」
 アレクサンドロスが小さく呟くのを、ネアルコスは聞いた。
 しばらくのあいだ、ネアルコスは、王が自分も投石機で跳んでみたいと言い出すのではないかと緊張した。
 その静寂は、ペルディッカスの、「探索隊を落下地点に差し向け、探させますか」という声で破られた。
「いや、よい」と、王は首を振った。「おそらく見つかりはしないだろう」
 そう言うとアレクサンドロスはマントを翻し、城に向かって歩き出す。
 乾いた風だけが吹き渡る荒野を一瞥して、ネアルコスは王の後を追った。


(第四話 終)


この小説を書くにあたり、主に以下の著書を参考にさせていただきました。
篤くお礼を申し上げます。
『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』 森谷公俊 講談社学術文庫
『図説 アレクサンドロス大王』 森谷公俊 河出書房新社
『ヒストリエ』 岩明均 アフタヌーンKC 講談社
『アレクサンドロス』 安彦良和 文藝春秋社
 
posted by 沢村浩輔 at 16:48| Web小説

『探偵と悪党と王〈前編〉』



『探偵と悪党と王〈前編〉』



 紀元前333年の初夏、まもなく日付が変わろうとする時刻――。
 古代マケドニアの王、アレクサンドロス3世は満天の星空を見上げていた。
 先ほどまで重臣たちと酒を酌み交わし、彼らの議論に耳を傾けていたのだが、今夜はいつもより杯を重ねてしまったようだ。少し風に当たろうと思い、王は席を立った。護衛の者たちに付いて来ずともよいと身振りで示し、ひとりで外に出た。
 ひとけのない夜の帳の下、ゆったりと静寂を味わった。七月の夜風が酔った頬に心地良い。
 だが風に吹かれながら、最初は軽く微笑んでいた王の口元が、次第に引き締まっていった。
 去年の春に開始した東方遠征は、これまでのところ順調に進んでいた。
 父王フィリッポス2世から引き継いだ3万7000人のマケドニア軍は精強を誇り、すでにグラニコス川の決戦でペルシア軍を一蹴していた。その余勢を駆って小アジア沿岸の各都市を恭順させ、東征一年目は堂々たる成果を挙げて終わったのである。
 それなのに今、一人で佇む王の横顔には、かすかな愁いがあった。
 ペルシア帝国の首都バビロンでは、ダレイオス3世がアレクサンドロスを迎え撃つべく大軍を集結させている、という報告を受けていた。
 おそらく、今年の冬までにダレイオスと雌雄を決することになるだろう。
 ダレイオスに負ける気はしなかった。
 しかし、絶対に勝てるという確信もなかった。
 もし勝てなければ、すべてが終わる。
 ダレイオスは負けても捲土重来を期すことができるが、アレクサンドロスにその余裕はない。
 兵たちは知らぬが、父の代からの戦争につぐ戦争で、マケドニアの財政は火の車だったからだ。
 ダレイオスを討ち、ペルシア帝国の莫大な財貨を奪うことが、この遠征を成功させるための必須条件だった。
 幸い、兵たちは自分を信頼してついてきてくれている。士気も申し分なく高い。
 だが明敏なアレクサンドロスは、彼らの心の奥に潜む一抹の不安を感じ取っていた。
 何か手を打たねばなるまい。それもなるべく早く……。
「こちらにおられましたか」背後から穏やかな声がした。
 アレクサンドロスはわずかに顔を後ろに向けた。「ネアルコスか」
「少し夜風が冷たくなってきました。そろそろ中に入られては?」
「そうだな」
 アレクサンドロスは踵を返し、建物に戻ろうとした。
 そのとき、すっと夜空が明るくなった。
 王は足を止め、天を振り仰いだ。
 宝石を散りばめたような夜空を、煌めく光の粒がふたつ、黄白色の長い尾を引きながら、東から西へ音もなく流れていく。
 アレクサンドロスは目を瞠って、光の軌跡を見つめた。
 光る球は丘陵の向こうに見えなくなった。ほどなく西の地平が一瞬明るくなり、ふたたび闇に戻った。
「今のを見たか、ネアルコス?」
「見ました」
 主従の声はどちらも弾んでいた。アレクサンドロスは子供の頃から好奇心が強く、常に変化を求めてきた。安閑と玉座を温める日々など考えるだけでうんざりする。そしてネアルコスもまた好奇心のかたまりのような男だった。だからこの二人はウマが合った。
「流れ星でしょうか?」
「いや、違うな。あれは――」
 あれは神から私への贈り物ではないか。
 ふいに、その考えがアレクサンドロスの心に閃いた。根拠はない。だが、神々はダレイオスではなく私に味方するはずだ。
「あの丘の向こうに落ちたな」
「そのようですね」
「ネアルコス」アレクサンドロスが少年のような口調で訊ねた。「あの光が何だったのか、知りたくはないか?」
「知りたいですね」ネアルコスも嬉しそうに頷く。
「探しに行くぞ。夜明けと共に出発する。お前もついてこい」
 探して来い、ではなく、探しに行くぞ、というのがアレクサンドロスらしいとネアルコスは微笑した。とはいえ臣下として同意はできない。まがりなりにもここは敵地なのだ。
「私にお任せください」とネアルコスは請け合った。「おおよその落下地点は分かっています。明日のうちに見つけられるでしょう」




 燦めく光の繭に包まれながら自由落下の速度で落ちてきたホームズは、凄まじい衝撃と共に地面に激突した――はずなのだが、なぜか靴底に伝わってきたのは、階段を下りた程度の軽い反力だった。
 地面に接触した瞬間、体を包んでいた光の繭が目を開けていられないほどに輝きを増し、ゆっくりと消散したので、ホームズには窺い知れぬ法則により、衝突エネルギーが光エネルギに置き換えられたのだと悟った。
 視界の端で、もうひとつの光の繭がゆっくりと消えていく。今回はモリアーティも、ホームズと同時に到着したようだ。
 光が消えてしまうと、周囲は灯りひとつない真の闇になった。
「さて、ここはどこだろう」
 ホームズはひとりごちた。光が消えてしまうまでのわずかなあいだに、素早く辺りの様子を観察してみたが、いかんせん時間が短すぎて手がかりは得られなかった。
 それでも数秒の光景から、ここが荒れ地であることが確認できた。
 英国の辺境だろうか、とホームズは考えかけ、すぐにその可能性を打ち消した。明らかに空気が違う。祖国とは異質の土地だ。
「ホームズ」闇の中からモリアーティが呼びかけてきた。「上を見てみろ」
 その言葉に夜空を振り仰いだホームズは目を瞠った。見たことがないほどの無数の星が視界いっぱいに広がっていたのだ。
 夜空の星々をよく宝石に喩えるが、大げさではなくその通りだった。
 ホームズはしばらく言葉もなく、満天に散りばめられた宝石を見つめた。
「倫敦では絶対に味わえぬ眺めだな」モリアーティの声にも賛嘆が含まれていた。
「たしかに」とホームズも頷くしかない。
「しかし、大地には灯りひとつ見えないな」モリアーティが言った。「ここで夜明けを待つより仕方あるまい」
「静かに朝を待つのも良いものさ。見たまえ教授」ホームズは目を細める。「北斗七星がある。僕たちがいる場所は北半球だよ」
 北斗七星が見つかれば、北極星を探すのは簡単だ。
「なるほど。あっちが北だ」
「北極星の位置が低いな」モリアーティも夜空を見上げている。「倫敦よりも南だぞ、ここは」
「おそらく……北緯三十五度くらいだろう」
 何も見えぬが、言葉を交わすことはできる。
「そのようだね」とホームズも頷く。「さて、長い夜をどう過ごしたものかな」
 ホームズとモリアーティは腰を下ろし、証明されていない数学の問題について、意見を戦わせた。百年以上も世界中の数学者が解明を試み、まだ誰も果たせずにいる難問だ。二人もさまざまな方向から糸口を見つけようと試みたが、とうとう歯が立たなかった。それでも実に愉快だった。お互いの数学の能力が拮抗しているからだろう。
 夢中で話し込んでいたホームズが我に返ると、東の空が青みを帯び始めていた。まもなく夜明けだ。
「今回はここまでにしておくか」モリアーティが名残惜しそうに言った。
 ホームズももう少し議論を続けたい気分だった。だが水も食料もない状況で、時間を無駄にはできなかった。
「あの丘に登ってみないか」とホームズは提案した。「丘の上から見渡せば、辺りの様子が分かるだろう」
「そうするか」とモリアーティも頷く。
 二人はキビキビとした足取りで斜面を上っていった。ホームズが予想した通り、この丘陵の頂上に立つと、はるか遠くまで見渡せた。
 だが、どちらを向いても、荒涼とした風景が広がっているばかりで、街や道路はもちろん、人の営みを想起させるものは何ひとつ見当たらなかった。
「どうやら僕たちは、あまり芳しくない状況にあるようだね」ホームズは飄々とした口調で言った。
「ずいぶん楽観的だな」モリアーティは呆れた顔をした。「私なら絶体絶命の危機と表現するがね」
「それは違うよ、教授」ホームズはきっぱりと言った。「ここが大都市の雑踏だろうが、周囲数百マイルに誰もいない荒野だろうが、どちらでも構わない」
 ホームズの言葉に、モリアーティはわずかに首をかしげる。しかしその意味を尋ねず、考え込んだ。
「僕たちは望んでここに来たわけではない」ホームズは言葉を続けた。「実際は逆だ。この荒野にタイムスリップするにあたって、僕と教授の意見は気持ち良いほどに無視されている」
「たしかに、な」とモリアーティも同意した。
「つまり、何者か――それが神だとは思わない。誰なのか、と訊かれても僕にも分からないが――の意志により、いま僕たちはこの場所にいる。そして東京で、太平洋上で、喜望峰でそうだったように、僕たちは誰かに遭遇するだろう」
「なるほど。その何者かは、我々をここで野垂れ死にさせる気はないということか」
「僕はそう推論したのだが、君の意見はどうだ?」
「分かった分かった」とモリアーティは苦笑した。「ここで待っていれば何かが起こる。私も同意するよ」
「とはいえ、大人しく何かが起こるのを待つのは退屈だな」ホームズは悪戯っぽく微笑んだ。「そうだ。せっかくだから、いま僕たちがいる場所を特定しようじゃないか」
「何だと?」
「僕たちが今いる緯度と経度を突き止めるんだ」ホームズは楽しげに言った。「まずは緯度からだ。北極星が朝日に照らされて消えてしまう前に始めよう」
 ホームズは北極星を見上げながら、滔々と語る。
「倫敦の緯度は北緯52度だ。倫敦では北極星は地平線から52度の位置にある。北極星の高度を求めれば、その場所の緯度が判明するわけだ」
「知っているさ。だが、どうやって高度を測るつもりだ?」
 ホームズは、ポケットからメモ帳を取り出してページを破り取った。
「これを使う」
「何も書かれていない紙をか」
 ホームズがにやりと笑った。
「まず、この用紙を対角線に沿って二つ折りにする。広げるとちょうど45度の位置に折り目が付く。紙をもう一度畳み、また二つに折る。さらにもう一度。よし、これでいいだろう。見たまえ、広げると11.25度刻みの線が入った簡易分度器のできあがりだ」
 放射状に折り目が付いたメモ用紙を、ホームズは顔の横に当てた。
「紙の下端を水平にして、北極星の角度を測ると……ふむ。ほぼ35度だ。教授、この場所は北緯35度にある」
「けっこう。だが問題は経度だ」モリアーティが顎をさすった。「経度を割り出すのは、緯度ほど簡単にはゆかぬぞ」
「分かっている。まずは時計が必要だが」ホームズは上着の内ポケットから、銀メッキの懐中時計を取り出した。「幸い、僕はこれを持っている」
「ふむ、上等な時計だ。だが、もう長く時間を合わせていないはずだ。正確な時刻が分からなければ、経度を割り出すことはできない」
「もちろん正確な時刻を知るのは無理だ。しかし、おおよその時刻なら導き出せる」
「よかろう。お手並み拝見といこう」
「では、その方法を説明しよう」
 ホームズは右手に時計を持ち、ふたたび滔々と語り始めた。
「僕が愛用するこの懐中時計は、さる高貴な身分の紳士から事件解決のお礼に贈られた品で、以来いちども故障することなく、常に正確に時を刻み続けている。
 そしてタイムスリップ中は、時計の秒針が止まり、タイムスリップが完了すると針が動き出すことは、すでに確認済みだ。
 この二つの事実から、タイムスリップ中は時間が止まっているか、もしくは時間が存在しないと僕は考えている」
「なるほど」
「さて、僕が最後に懐中時計の時刻を合わせたのは、僕たちがライヘンバッハの滝から落ちる六時間前だった。
 だから東京、大西洋の上空、南アフリカの喜望峰、そしてこの地に着いてからの滞在時間を合計し、そこに六時間を足せば、最後に時刻を合わせてから現在までの経過時間が判明する。
 そして経過時間が分かれば、この時計の時刻が、正しい時刻より何分何秒進んでいるかを知ることができるわけだ」
「各時代の滞在時間を覚えているのか?」
「もちろんだ」ホームズは平然と頷く。「まずはライヘンバッハで6時間、東京では2時間36分、大西洋上空には4時間2分、喜望峰では25時間18分、そしてこの場所に着いてから11時間51分が経ったところだ」
 ホームズは話しながら、リューズを回して時計の針を進めていく。
「さあ、これで僕の時計はロンドンの時刻になった。さすがに秒の単位までは確認していないが、そこは誤差の範囲内ということにしておくよ」
「ロンドンを通る子午線が経度0度だ」とモリアーティが続けた。「この時計が正午を指すよりも早く太陽が真上に来れば、ここはロンドンよりも東にあり、そうでなければ西にあると分かる。そして、そのときの正午との時間差から東経または西経が何度かを割り出し、北緯35度の線と交差させれば、ここがどこか判明するわけだ」
「正午までおよそ、二時間くらいかな」ホームズは言った。「また雑談に興じて時間をつぶそうじゃないか」
「……ま、他にやることもないしな」
 二人は周囲を見下ろす丘陵の上に並んで腰を下ろした。暖かく乾いた風が、二人のあいだを抜けていく。
「だけど僕たちが親しそうに話している光景を、レストレイド警部が見たら」ホームズは愉快な気分で微笑んだ。「きっと目を丸くするだろうね」
「ふん、奴がどう思おうが知ったことか」




 二時間後、ホームズとモリアーティは、ここが北緯35度かつ東経33度プラスマイナス1度付近にある場所だと結論した。
 ホームズは頭の中に世界地図を広げ、該当箇所にピンを打ち込んだ。
「これで僕たちがオスマン帝国の小アジア地方の、おそらくほぼ中央部にいることが分かったわけだ」
「残る問題は、今が西暦何年か、ということだが」
「そればかりは、僕の時計も教えてはくれないな」
 時計の針を元に戻すべきか、それともこのままにしておくか、話し合っていると、遙か彼方に土煙が立った。
 先に気づいたのはモリアーティだった。
「何かがこちらに来るぞ、ホームズ」
 砂煙がみるみる近づいてくる。
「誰かが馬を駆っている」とホームズも応じる。「それも複数名だ」
「我々をランチに招待してくれるのなら有り難いのだが」モリアーティがつまらなそうに言う。「どうも違う気がするな」
「どんな用件であれ、これまでの経験から考えて、彼らが今回のキーマンだろう。丘を下りて出迎えようじゃないか」
 二人は立ち上がって、斜面を下り始めた。
 が、半分も下らないうちに、馬で疾走してきた軍装姿の男たちが丘陵の麓に到達した。
 先頭の小柄な男が隊長で、後ろに付き従っているのが副将格だろう。そして十数名の兵士と平服の男が一人。彼らは小さな荷車を一台引き連れていた。
 隊長が馬を止め、こちらを見上げた。離れているので顔かたちまでは分からないが、若い男だ。
 先頭の男がひらりと馬から降りると、他の者も続いた。彼らの馬には鐙(あぶみ)がついていなかった。
 ホームズは喉の奥で低く唸った。
「さきほど君は、今が西暦何年かと訊いたね。正確には紀元前何年かと訊ねるべきだったよ」
「それなら答えが分かった。紀元前333年だ」
「あの鎧は古代マケドニアのものだ」ホームズは厳しい声を出した。「そしてマケドニア兵がこの地にいるということは……」
「まずいことになったな」さすがのモリアーティも表情を曇らせた。「我々はアレキサンダー大王の東征軍に見つかってしまったらしい」
 すでに兵士たちは二人に向かって歩き出している。言葉が通じない不審者だと分かれば、問答無用で斬り捨てられるかもしれない。
「一応訊くけど、教授、君は古代ギリシア語を話せるかい?」
「話せない」とモリアーティが首を振った。「お前も話せないのか、ホームズ?」
「残念ながら。古代ギリシア語ではなく、ラテン語を習得したことを、いま後悔しているところだ」
 モリアーティは、ホームズの軽口ににこりともしなかった。
「ホームズ、銃から弾を抜いておけ」モリアーティが丘陵を上ってくる男たちに視線を据えたまま言った。
「なぜだ?」
「もちろん彼らは銃というものを知らない。だが兵士という人種は、たとえ未知のものであっても武器には敏感だ。用心するに越したことはない」
「なるほど。君の勘を信じよう」
 抜き取った弾をポケットの中に滑り込ませてほどなく、二人は兵士たちに取り囲まれた。
 彼らは皆、全身から乾いた殺意を放っていた。人を殺すことに慣れた者の目だ。
 正面の兵士が左右に目配せすると、彼らは無駄のない動きで二人の背後を塞いだ。
 後ろに立った兵士が短い言葉を吐きながら、ホームズの背中を荒々しく小突く。
 何と言ったのかは分からないが、おそらく「歩け!」だろう。
 ホームズとモリアーティは短く視線を交わして歩き出した。二人を取り囲むように、兵士たちも付いてくる。
 丘の下では、隊長らしき男が馬にまたがったまま、近づいてくるホームズたちを見つめている。
 ホームズもさりげなく隊長を観察する。
 聡明そうな顔をした、まだ若い男だ。意外にも柔和な表情をしている。男はホームズたちを珍しそうに眺め、何かを問いかけてきた。
 こちらが何者か誰何しているのだろう。だがホームズもモリアーティも相手に通じる言葉を持ち合わせていない。
「もし貴方が私の名前を訊ねているのなら」一縷の望みを込めて、ラテン語で答えた。「私はシャーロック・ホームズ。彼はジェイムズ・モリアーティだ」
 隊長はホームズの言葉に耳を傾けていたが、小さく首を振ると、部下の一人に何かを命じた。
 初老の男が、隊長と異なる言語で話しかけてきた。通訳らしい。たぶんペルシア語だ。しかしホームズは古代ペルシア語を知らない。通じないと分かると、男はさらに別の言語に切り替えた。それも分からない。通訳は次々に違う言葉で話しかけてくる。そして少しずつ言葉がたどたどしくなっていった。ついに通訳は匙を投げたように首を振り、隊長に報告した。きっとこうだ。「駄目です。この連中には、私が知っているどの言葉も通じません」
 その報告を受けている隊長の表情が、ホームズには不思議だった。彼の顔に浮かんでいたのは、〈くそ、面倒くさい奴を捕まえちまったな。放免するか〉ではなく、〈言葉が通じないなら尋問もできぬ。さっさと殺して先を急ぐか〉でもなかった。まるで、〈うん、そうだろうな〉と言いたげな表情だったのである。
 隊長は通訳を下がらせると、今度は別の男に何かを命じた。
 命じられた男がゆっくりと近づいてくる。
 変わった男だった。艶やかな黒髪に黒い瞳。神官の服装をまとっている。よく晴れて相当に蒸し暑かったが、男は汗ひとつかいていなかった。しかも隊長を含めて他の兵士たちが顔も腕もよく日焼けしているのに、この男だけはまったく陽に焼けていないのだ。
 男は二人の前に立つと、微笑んで言った。
「ここがどこで、彼らが何者なのか、すでにお分かりのようですね」
「………!」
 ホームズもモリアーティも、しばらく口がきけなかった。男が滑らかな英語で話しかけてきたからだ。
「……あんたは、英語を話せるのか?」モリアーティがようやく訊ねた。
「ええ」男は何でもない風に答えた。
「しかし」とホームズが掠れ声で言った。「今が紀元前300年代なら、英語はまだこの世に存在しないはずだ」
「その通り」と男が頷く。「いま地球上で英語を話す者は、私たち三人だけです」
「すると」ホームズは声を落として訊いた。「あなたも我々と同じように、時代を超えて来たのか?」
「たしかに、私はこの時代の人間ではありません。というか、人間ではありません」
 男の微笑に親しさが加わった。
「お久しぶりです。喜望峰ではお世話になりました。クロワと申します」
 喜望峰?
「……まさか?」
「はい。あのときの鴉です」
 ふたたびホームズは絶句する。
「君はいったい――」
「今は説明している時間がありません」クロワが早口で遮った。「隊長のネアルコスがお二人に訊きたいことがあります。嘘をつかずに答えてください」
 この男がネアルコスか、とホームズは隊長を見返した。大王の信頼が篤い側近の一人で、今から八年後、大王の命令により、艦隊を率いてインド洋沿岸を探検することになる人物だ。
 クロワがネアルコスに向かって頷くと、馬の上からネアルコスが訊ねた。
「お前たちはどこから来た?」
 ネアルコスの言葉をクロワが英語で伝えた。答えるのがすこぶる難しい質問だ。
「遠い世界から」
 とホームズは言った。嘘ではない。しかし当然、相手は納得しない。
「具体的にはどこだ? 国の名は?」
 さて、何と説明しようか。
「この大地を西へ、どこまでも進んでいくと、やがて広大な海に行き着きます。その大海原の北方に浮かぶ小さな島が、私の生まれた国です」
「ブリテン島のことか?」
 ネアルコスが訊き返してくる。
「私はブリテン島に行ったことはないが、あの島はケルト人が治める土地だと聞いている。だが君たちはケルト人ではないようだ」
 ネアルコスの指摘は的確だった。当時のイングランドはケルト人が支配しており、アングロサクソン人の島になるのは遙か後のことなのだ。だが、それをどう説明すればいいのか。さすがのホームズもすぐには思いつけなかった。
 クロワは嘘をつくなと我々に警告した。だが本当のことを話しても、ネアルコスは信じないだろう。逆に怒らせてしまい、私とモリアーティを殺すかもしれない。
「そうか。答えたくないのか」
 腕組みをしてネアルコスが言った。
「では率直に訊ねよう。君たちはこの世界の者ではあるまい?」
 ネアルコスの質問を、ホームズは面白いと思った。
「なぜ、そう思うのですか?」
 ホームズが訊き返すと、ネアルコスは地面を指さし、「足跡だ」と答えた。
 そのひとことで、ホームズはネアルコスが何を言おうとしているのかを理解した。だがそ知らぬ顔で言った。「足跡ですか?」
「そう、足跡だ」ネアルコスは頷いた。「我が王アレクサンドロスは昨夜、煌めくふたつの流れ星が夜空を横切り、西の地平に落ちるのを見た。そして私にあの流れ星を持ち帰るよう命じられた」
 ネアルコスは愉快そうな口調で続けた。
「私は半日を費やし、ようやく流れ星の落下地点を探し当てた。すると、そこに不思議なものを見た。荒野の真っ只中に、ふいに二組の足跡が出現していたのだ。その足跡を辿っていくと君たちがいた。私はこの不可解な状況をこう結論した。あの流れ星は君たちだったのだ、と」
 言葉を切ると、ネアルコスは真顔に戻った。
「説明は以上だ。答えろ。あの流れ星は君たちか?」
 どうする? ホームズは決心をつけかねて、先程から黙りこくっているモリアーティの横顔を窺った。すると予想に反し、その顔には怯えも恐れもなく、むしろこの苦境を面白がっているような趣さえあった。それどころか目が合うと、口元に笑みを浮かべたのである。
 モリアーティ! 何と忌々しい男だ。だが、その不敵な横顔を見てホームズは気持ちが軽くなった。いいだろう、本当のことを話してやる。
「その通りです」とホームズは答えた。「昨夜、王がご覧になったのは、天から落ちてきた私とモリアーティでしょう」
「そうか」ネアルコスは驚かなかった。「ならば一緒に来てもらう。アレクサンドロスは流れ星を見つけて持ち帰れと私に命じられた。たとえ君たちが神の使いであろうとも、私は仕事を果たさねばならぬ」




 ネアルコスは、星屑を持ち帰るために用意していた荷馬車にホームズとモリアーティを乗せて出発した。
「ネアルコスは、ゴルディオンの街に向かっているのだろう、クロワ?」
 荷車に揺られながらホームズが訊ねた。乗り心地はどうみても快適とはほど遠かった。これだけの台詞を言うだけで舌を噛みそうになる。
「ええ、そうです。十マイル(約16km)ほどの距離ですから、夕刻までには到着できますよ」クロワがこともなげに答えた。
「何だと?」モリアーティが低く唸った。「十マイルもこの忌々しい荷車に私を乗せておくつもりか。尻が擦り切れて火を噴くぞ。何とかしろ。お前は神の僕(しもべ)なんだろう?」
「もしお望みならば」楽しげにクロワが提案する。「私の馬をお貸ししますよ、モリアーティさん。もちろん、鐙のない馬に騎乗できるなら、ですが」
「御託はいい。今すぐ鴉の姿に戻って、私に羽を毟らせろ。その羽をクッション代わりにする」
「申し訳ありませんが、お断りします」
 クロワは澄ましてそう言うと、馬の速度を上げて荷馬車から離れていった。
「くそ。いつかローストチキンにしてやるからな」
「ハハハ」ホームズは堪えきれず笑ってしまった。「教授、君が負け犬の遠吠えを口にするのを初めて聞いたよ」
「笑っている場合か、ホームズ」モリアーティが不機嫌に言う。「お前の尻も、そろそろ悲鳴を上げ出す頃合いのはずだ」
「む、たしかに……」ホームズも顔をしかめた。
 それからの数時間、二人は苦虫をかみつぶしたような顔で黙りこくっていた。


 二人の機嫌が直ったのは、街道の彼方にゴルディオンの街の全景が見えてきたときだった。
 乾いた大地が育んだ澄み渡る大気と、どこまでも突き抜けるような青空の美しさ。午後遅い時刻にもかかわらず、高い位置で輝く太陽と、その陽光が燦めかせているゴルディオンの町並みが広がっている。
「ああ、素晴らしい眺めだね」
「……まあな。悪くはない」
 それはホームズが、そしておそらく欧州から出たことがなかったモリアーティが、初めて目にする種類の景色だった。
 ちなみにホームズは、倫敦に帰還した後、この風景をときおり思い出すことになる。たとえば冬の倫敦の、陰鬱な曇り空の下を歩いているときに。
 そのとき一緒に歩いていたワトスンは、ホームズがここではない、どこか遠い場所を見つめているのに気づいたかもしれない。
 ワトスンは訊ねただろうか。「ホームズ、君はいま、何を考えていたんだい?」と。ホームズが何と答えたかは、ワトスン博士が書き残していないため分からない。
 それはさておき――。
 ゴルディオンは小アジア地方のほぼ中央に位置する街だ。ギリシアやエジプトなどの西方地域と、ペルシアなどの東方地域を結ぶ、交通、交易の拠点として繁栄していた。
 二人は、ゴルディオンの市街地に入る前に、もうひとつの絶景にも遭遇した。
 昨年の秋、アレクサンドロスは食糧が不足する冬期を乗り切るため、マケドニア軍を二つに分けた。自身は歩兵と軽装兵を率いて地中海沿岸の諸都市の攻略を続け、副将パルメニオンには騎兵とギリシア人部隊を預け、ゴルディオンで待つように命じたのだ。
 そして今、アレクサンドロスが指揮する本隊と、パルメニオンが率いていた第二軍が、ここゴルディオンで合流し、街の郊外にマケドニア全軍が勢揃いしていた。
 総数三万を越える兵士たちが、見渡す限りの夥しい数の天幕を張って宿営している光景は、ひとつの街が忽然と出現したかのような不思議な眺めだった。
「丘の上に城塞が見えるでしょう」
 いつの間にか荷馬車の横に並んでいたクロワが話しかけてきた。
「アレクサンドロスはあの城に滞在しています」


 ようやく一行はゴルディオンの街に到着した。
 街は活気に溢れていた。様々な肌の色、装いをした人たちが行き交い、様々な響きの言語が飛び交う雑踏を通り抜け、ネアルコスは二人の異邦人を連れて城門をくぐった。
 城内の前庭で、ホームズとモリアーティは、荷馬車から降りてゴルディオンの地を踏みしめた。尻の痛みのせいで感激が五割減ではあったが、二人は揃って安堵のため息をついた。
 ところが城館に入った途端、一人の男がネアルコスを呼び止めた。
「へファイスティオンです」クロワが小声で囁く。モリアーティが声に出さずに、ほう、という口をした。へファイスティオン。アレクサンドロスがもっとも寵愛したといわれる側近だ。すらりと背が高く、表情にも態度にも自信が満ちあふれている。
「やあ」とネアルコスが愛想良く頷き返した。
「ずいぶん遅かったな。王がお待ちだぞ。ネアルコスはまだ戻らぬか、と何度も訊ねられた」
「そうか。さっそく報告にあがろう。では」
 そう言って背を向けたネアルコスを、へファイスティオンが再び呼び止めた。「待て。その男たちは何者だ?」
 ネアルコスは一瞬、顔をしかめたが、振り返ったときには穏やかな微笑を浮かべていた。
「済まぬが、まず王に報告する。その後で君にも説明しよう」
 へファイスティオンが遠慮の無い視線をホームズとモリアーティに注いだ。
「こいつらを王に会わせるつもりか。ダレイオスが送り込んだ刺客かもしれぬぞ」咎める口調だった。
「アレクサンドロスのご命令だ」声を強めてネアルコスが言った。
「ならば私も同席する」
「お好きに」ネアルコスが小さくため息をついて歩き出す。
 通路を進むと、前方に警護の兵たちが入り口を固めているのが見えた。その向こう側がアレクサンドロスの居住区のようだった。
「ネアルコスが戻ったと王に伝えてくれ」ネアルコスが兵士の一人に言った。
「この者たちの体を改めろ」すかさずへファイスティオンが別の兵士に命じた。
 護衛兵のごつい手が二人の服を叩くように調べ、ホームズの上着のポケットから銃を掴み出した。
「これは何だ?」ヘファイスティオンが鋭く訊ねる。
 ホームズは内心の焦りを表情には出さず、「御守りです」と答えた。まったくの嘘ではない。あくまでも銃は護身用として所持している。「お返し願えますか」
「駄目だ。これが何か私には分からぬ。だが禍々しいものを感じる。アレクサンドロスとの謁見が終わるまで、私が預かっておく」
 へファイスティオンはそう言うと、有無を言わせぬ足取りで立ち去った。
 ……しまった。ホームズは心の中で舌打ちしたが、追いかけて取り返すわけにもいかなかった。
「王がお待ちです」戻ってきた兵がネアルコスに言った。「どうぞ、お通りください」
 ネアルコスは振り返ると、ホームズとモリアーティを短く見つめた。
「ひとつ忠告しておく。お前たちが神の遣いであろうがなかろうが、そんなことは関係ない。お前たちの神に対するようにアレクサンドロスに敬意を払え。命が惜しいなら、な」
 これまでのネアルコスとは別人のような厳しい口調だった。
「もちろん、そのつもりです」
 二人が答えると、
「そうか。ならばよい」
 ネアルコスは表情を和らげると二人に言った。「では、いこうか」




 ゴルディオン城塞の中央を貫く幅広の廊下を進んでいくと、前方に大きな扉が見えてきた。
 扉は大きく開け放たれ、その向こうから賑やかな話し声が聞こえて来る。
 入り口で先導の兵士が立ち止まり、気をつけの姿勢を取った。
「ネアルコス様をお連れしました」
 談笑していた男たちが会話を止めて、こちらを見た。
「待ちくたびれたぞ、ネアルコス」数段高い玉座から若い男が快活に呼びかけた。
 この男がアレクサンドロス三世か……。。
 ホームズは緊張で身が固くなるのを感じた。
 十九世紀の欧州には存在し得ない、文字通りの絶対君主である。彼はマケドニアの王だが、実質的にはギリシア世界の王であり、裁判官であり、ときとして神をも越える強大な権力を一身に集める人物だ。
 アテネもスパルタも、エジプトを統べる神官たちも、彼に逆らうことはできない。いや、できるが逆らえば滅ぼされる。そして敵対するペルシア帝国の王ダレイオスも、一年後には、その事実を認めざるを得なくなる。
 しかしホームズは、恐怖よりも、胸の高鳴りを覚えた。
 ああ、似ている! 
 ベーカー街の自宅で暇を持て余したとき、ホームズはよく歴史上の偉人たちの容姿を想像する遊びに興じたものだった。アレキサンダー大王もその一人で、彼の伝記を読み、その巨大な足跡に思いを馳せるとき、脳裏に浮かぶ顔があった。その顔はルーブル美術館で見た大王の胸像とも少し違うのだが、いま目の前にいる男の顔立ちは、ホームズが思い描いていた大王にそっくりだったのだ。
 思っていた通り、凜とした眼差しだ。瞳の奥に情熱の炎がある。表情は陽気で人懐こく、知的でさえあった。しかしその内側に、冷酷さと猜疑心と激情が潜んでいることをホームズは見て取った。そして普段は隠されている彼の性質が、些細なきっかけで火山の爆発のごとく表出するであろうことも。
「ただいま戻りました」ネアルコスが王の前に進み出た。「遅くなりましたが、流れ星の落下地点を見つけました」
「見つけたか!」アレクサンドロスが満足そうに言った。「よくやった」
「なんだ、今日は顔を見ないなと思っていたら、流れ星を探しに行ってたのか」
 いかにも育ちが良さそうな青年がおかしそうに笑った。そして王に話しかける。
「そういえば、ミエザの講義でアリストテレス先生が仰っていましたね。流れ星は天から降ってくる石だと。お前も覚えてるだろう、クレイトス」
「ああ、覚えている」と精悍な顔立ちの若者が応じた。「しかしフィロータス。俺は、たとえアリストテレス先生の言葉でも、空から石が降ってくるなんて信じられないけどな。で、どうだった、ネアルコス。流れ星はやはり石なのか?」
「まあ、待て。二人とも」アレクサンドロスが片手を上げて遮った。「まずはネアルコスの報告を聞きたい」
 なるほど、とホームズは心の中で頷いた。この男たちがフィロータスとクレイトスか。フィロータスは将軍パルメニオンの息子であり、クレイトスはアレクサンドロスの幼馴染みで、前年のグラニコスの会戦では、間一髪で王の命を救った。二人は王の側近中の側近で、三人のあいだに漂う空気は和やかだった。数年後、フィロータスもクレイトスも、アレクサンドロスの不興を買って殺されることになるのだが、今の三人には、そんな未来は想像もできないだろう。


「実は、まことに不思議なことですが……」ネアルコスは後ろに控えているホームズとモリアーティを示しながら言った。「昨夜、王がご覧になった流れ星は、どうやらこの二人のようなのです」
「何だと……」さすがのアレクサンドロスが、すぐには言葉が見つからない。
「おいおい。何を言ってるのか分からないぞ」フィロータスがからかうように言った。ヘファイスティオンのような意地悪さはなく、柔らかな口調だ。「それじゃ、まるで空から人が落ちてきたように聞こえるが」
「いや、そう言ってるんだ、フィーロータス」
 ネアルコスはホームズたちを見つけるまでの経緯を、アレクサンドロスに語った。
 王は口を挟まず、ネアルコスの言葉に耳を傾けた。
 フィロータスとクレイトスは、呆気にとられた顔をしている。
 ネアルコスの報告が終わると、アレクサンドロスは、ホームズとモリアーティを眺めながら考え込んだ。
「なるほど。たしかに不思議な男たちだ」
 アレクサンドロスが二人に向かって訊ねた。
「ネアルコスは、お前たちが天から降って来たと言ったが、それは本当か?」
「本当です」とホームズは認めた。
「おいおい、冗談も大概にしろよ」フィロータスが苦笑した。
「誰がそんな世迷い言を信じると思う?」クレイトスも呆れたように呟く。
 だがアレクサンドロスは真剣な表情だ。
「お前たちは、神の使いなのか?」王がふたたび問うた。
「いいえ、私たちは神の使徒ではありません」ホームズは答えた。
「ならば、どうして空から降ってきた?」
 口調は穏やかだが、嘘や誤魔化しは許さぬ、と王のまなざしが告げていた。
 ホームズの額に冷や汗が滲んだ。
「……教授、僕は今、シェヘラザードになった気分だよ」
 ホームズはモリアーティにだけ聞こえる音量で囁いた。
「状況はもっと悪いな」モリアーティが囁き返した。「アレクサンドロスは千夜一夜物語のペルシア王ほど甘くないだろう」
「そのようだ」とホームズも認めた。「ならば、本当のことを話すしかあるまい」
「きわめて危険な賭だな。だが……」モリアーティがうっすらと微笑んだ。「すでに我々の命は風前の灯だ。お前の判断に任せよう」
「ありがとう、教授」
 ホームズは顔を上げて、アレクサンドロスの視線を受け止めた。
「先程申し上げたように、私たちは神の使いではなく人間です。ブリテン島に生まれ、今もそこに住んでいます。ただし……信じていただけないかもしれませんが、私たちが生まれたのは、今から二千二百年後のブリテン島なのです」
「待て」
 アレクサンドロスが話を遮った。
「二千二百年後……と言ったのか?」間違いではないのか、という表情でクロワに訊ねる。
「たしかにそう言っています」クロワが答えた。
「それを信じろというのか」
「私は王のお訊ねに、正直に答えております」
 何と不遜な返答かとホームズは思う。私が王なら、この無礼な男たちの首を即座に刎ねるだろう。
 しかしマケドニアの王は、尋常の人間ではなかった。
「では訊くが、お前たちは何をしに来た?」
「分かりません」
「なぜ、分からぬ?」
「私たちがこの時代にたどり着いたのは、私たちの意志ではないからです」
「刻を司る神の意志か?」
「私も初めての経験ゆえ分かりませんが」ホームズは言葉を吟味しながら慎重に答えた。「仰せのように神の意志かもしれません。あるいは何者の意志も介在しない自然現象かもしれません」
「自然現象で時を越えたというのか。……いや。お前にも分からないのだったな」
 王は質問を変えた。
「ブリテン島では、どんな仕事をしていた?」
「私はブリテン島の首都で謎を解く仕事に就いておりました」
「待て。いま、謎を解く、と言ったか」
「申し上げました」
「面白い。謎を解くのが仕事か」アレクサンドロスは強い興味を抱いたようだった。「人間の本質は仕事のやり方に現れるという。お前がどういう人間かを知るには謎を解かせればよいが……残念ながら今の私には解けない謎がないのだ」
「それは素晴らしきこと。お喜び申し上げます」
「うむ……」一瞬、何かを言いかけて止め、アレクサンドロスは隣のモリアーティに視線を移した。「お前も謎を解く者か?」
「いいえ、閣下」モリアーティは剛胆にも告白した。「私は稀代の悪党でございます」
「なに?」アレクサンドロスは微かに目を瞠ったが、すぐに微笑んだ。「なるほど。たしかにどこから見てもお前は悪党の顔だ。違いない」
「お褒めに与り、光栄です」
「褒めてはおらぬ。謎を解く者と悪党が、連れ立って旅をしているのは、なぜだ?」アレクサンドロスが訊ねた。
 モリアーティが答えようとしたそのとき、
「お待ちください! その者どもの言葉を信じてはなりません」
 ふいに背後から朗々とした声が響いた。ホームズが振り返ると、開け放たれた扉の前に、へファイスティオンが立っていた。武将らしい軍服姿の男を従えている。
「へファイスティオンか」とアレクサンドロスが言った。「それにペルディッカスも。何事だ」
「その二人はメムノン(ペルシアの武将。アレクサンドロスの好敵手)が差し向けた刺客の疑いがあります。すぐに拘束して取り調べてください」
 そう告げると、へファイスティオンが傲然たる足取りで入ってきた。歩きながら右手を高々と掲げる。その手には先刻ホームズから取り上げた銃が握られていた。
「ちっ、あの男、やはり邪魔しに来たか」モリアーティがホームズの耳元で囁いた。「ここが倫敦なら、今すぐに奴の首をへし折ってやるのだが」
 へファイスティオンはネアルコスの隣に並ぶと、王に言った。
「これをご覧ください。この者たちが持っていたものです。私が見つけて取り上げました」
「それは何だ?」
「この者に訊ねると」へファイスティオンはホームズを視線で示しながら、「お守りだと答えました。ですが、このようなお守りは見たことがありません。そこでペルディッカスにこれを見せ、意見を聞いたのです」
 ……まずいな。ホームズは眉をひそめた。ペルディッカスといえば、アレクサンドロスが亡くなる際に自分の指輪を与え、後継者に指名したほどの卓抜な指揮官だ。
「私も、これを見たことは一度もありません」とペルディッカスが言った。「しかしへファイスティオンに見せられたとき、武器に違いないと直感しました」
「武器だと?」アレクサンドロスが玉座から身を乗り出した。「見せてくれ」
 へファイスティオンが恭しく、銃を王に手渡した。
 アレクサンドロスは銃を熱心に調べた。
 最初はバレル(銃筒)を持っていたが、やがてグリップを握り込み、ふむ、と納得した顔になった。トリガーに親指をかけようとして、考え直して人差し指をかけた。その経緯をホームズは興味深く観察した。銃が持つ圧倒的な合理性と機能性が、初めて触った人間を正しい持ち方に導いたのだ。
 グリップを握りトリガーに指をかけた銃を、アレクサンドロスはしばらく眺めていたが、ふいに閃いたようにホームズの胸に銃を向けると引き金を引いた。カチリ、と乾いた音がした。
 ホームズは思わず息を呑んだ。モリアーティの助言がなければ死んでいた。
 アレクサンドロスは厳しい表情になり、手に持った銃を見つめた。
「このお守りは、神に祈るためのものではないな」
 そして顔を上げると、きっぱりと告げた。
「お前たちを放免することはできぬ。死罪を与える」
 まさに鶴の一声だった。
 ホームズの視界の端で、ヘファイスティオンがニヤリと微笑んだ。
「お待ちください」ホームズは食い下がった。「なぜ私たちを殺すのか、納得のゆく理由をお聞かせいただけますか」
「私はお前たちが」と王が言った。「へファイスティオンが言うような、ペルシアの刺客だとは思っていないが、この先、ダレイオスがお前たちを召し抱える可能性があると考えている」
「我々にそのつもりはありません」
「お前たちになくても、ダレイオスがそれを望むかもしれぬ。そしてペルシアの王が望めば、お前たちがその要求を拒むことは不可能だ」
 これにはホームズも反論できなかった。古代世界で王から求められれば、それに従うか、拒んで死ぬか、その二択しかないからだ。
 だが、ここで死ぬわけにはいかない。
「偉大なる、アレクサンドロス」
 とホームズは呼びかけた。
「さきほど王は、仕事ぶりを見ればその人物が分かると仰いました。ですが仕事以外にも、人物の程度を量る指標があります」
「ほう」王が訊ねた。「どんな指標だ?」
「ゲームです」ホームズは答えた。「勝負をしていただけませんか。もし私たちが負ければ死罪を受け入れます。ですが私たちが勝ったときは、自由の身を約束してください」
「貴様、王に向かって何を言っている?」へファイスティオンが腰の剣に手をかけながら進み出た。
「少し待て」王はへファイスティオンを制して訊ねた。「どのようなゲームだ?」
「チャトラジです」とホームズは答えた。
「チャトラジ? 知らぬな」
「盤面と駒を使って架空の戦争を行う、インド発祥のゲームです」
「私に戦争を挑むつもりか?」少し面白がり、少し呆れたようにアレクサンドロスが言った。
「命を賭けた勝負には、相応しいと存じます」
「面白い。よかろう」即答だった。
「ありがとうございます」
 ホームズは胸に右手を添えて恭しく頭を下げた。この時代にはない挨拶だが、敬意は伝わるだろう。
「あんたに頼みがある」
 交渉が成立したのを見て、すかさずモリアーティが小声でクロワに話しかけた。
「チャトラジを用意してほしい、でしょう?」とクロワが応じた。
「察しがいいな。未来へ行って1セット持ち帰ってくれ」
「簡単に言わないでもらえますか。でも、引き受けざるを得ませんね」クロワは顎に手を当てた。「往復の手間を入れて、二時間あれば大丈夫でしょう」
「往復で二時間?」モリアーティは聞き違いかと思った。「違う時代に行くとき、私とホームズは数時間も落ち続けているぞ」
「それは貴方たちが人間だからですよ。私は神の使いです。移動速度が違います」
「なるほど。ま、よろしく頼む」モリアーティは、ホームズに囁いた。「二時間後ならオーケイだ」
 ホームズは頷くと、準備のために数時間の猶予を願い出た。
「分かった。晩餐の後、私の時間を与える」アレクサンドロスが言った。
 ホームズとモリアーティは安堵の息をついたが、王は甘くはなかった。
「ネアルコス」とアレクサンドロスが命じた。「それまで、この二人を地下牢に閉じ込めておけ」


(後編に続く)


posted by 沢村浩輔 at 16:43| Web小説

『永遠のシャーロック・ホームズ』について


 最初にはっきり言っておきたい。
 この連作短編は色々な意味で常識を欠いている。
 まず主人公がシャーロック・ホームズであることだ。出来映えはともかく、仮にもホームズが登場するからには、読む人は真っ当なミステリだろうと期待する。私が読者でもそう思う。
 しかしお読みいただければ明らかなように、これは狭義のミステリ小説ではない。
 なぜ、ミステリでない小説にシャーロック・ホームズを登場させたのか?
 読者の期待を裏切る行為であり、ルール違反ではないのか?
 そうかもしれない。
 だが、もちろん私なりの理由がある。
 私はこの連作に『永遠のシャーロック・ホームズ』というタイトルを付けた。
 しかし、本当は『THE ADVENTURES OF SHERLOCK HOLMES』にしたかった。
 『シャーロック・ホームズの冒険』――いうまでもなく、コナン・ドイル氏のホームズ第一短編集のタイトルだ。
 いい歳になった今でも、このタイトルを口にすると、私はワクワクする。そしておそらく、そのワクワクの源は〈ADVENTURES〉という単語にある。
 そう、私はシャーロック・ホームズの〈事件簿〉ではなく、〈冒険〉を書きたかったのだ。
 では、冒険とは何だろうか。
 ひとことでは言い表せない豊かさと広がりを含む語句だが、これを書くにあたり、私は〈冒険=旅〉と考えてみた。
 つまり、旅するホームズの物語である。
 もちろん冒険である以上、どんな旅でも良いわけではない。
 先行きが見通せず、無事に帰還できるかどうかも定かでない旅が望ましい。
 予定調和の冒険などありえないからだ。
 逆に、その条件さえ満たせば、どんな旅も冒険となる資格を有する。
 それがタイムトラベルであれば、もはや冒険と同義だと断言して構わないだろう。

 そして二つ目の非常識は、ワトスンが存在しないことだ。
 ホームズとモリアーティが組み合ったままライヘンバッハの滝へ落ちた瞬間、この物語がスタートするのだから、ワトスン氏がホームズの旅に同行するのは無理である。
 当然のなりゆきとして、ホームズの同行者はモリアーティ教授ただ一人だ。
 ワトスン役がいない。ミステリ書きとしては、すこぶる困った状況である。
 二人が行く先々でワトスン役の人物に出会う、という王道の展開も考えたが、それでは〈冒険〉ではなく、〈事件簿〉になってしまう。
 できれば、それは避けたい。
 とはいえ、いい解決策も浮かばない。
「ええい、面倒くさい。もう、なしでいいや」という結論に至るのに時間はかからなかった。
 一応弁明しておくと、私もミステリ書きとしての責任感から、モリアーティ教授にワトスン役就任を打診してみた。そして一蹴された。
「なぜ、この私がホームズの記述者にならねばならんのだ? 頼むならホームズに頼め。あいつが私の冒険を記録すればいい。そもそも私はあの男が主人公というだけでも業腹だ。あいつのために指一本動かす気はないとはっきり言っておく」
 ま、そう言うだろうと思ってました。駄目元で訊いてみただけです。


 というわけで、私が夢想したシャーロック・ホームズ冒険譚の第四弾、『探偵と悪党と王』です。ご興味がある方は、どうぞ。

posted by 沢村浩輔 at 16:37| Web小説