2024年12月24日

『探偵と悪党と王〈前編〉』



『探偵と悪党と王〈前編〉』



 紀元前333年の初夏、まもなく日付が変わろうとする時刻――。
 古代マケドニアの王、アレクサンドロス3世は満天の星空を見上げていた。
 先ほどまで重臣たちと酒を酌み交わし、彼らの議論に耳を傾けていたのだが、今夜はいつもより杯を重ねてしまったようだ。少し風に当たろうと思い、王は席を立った。護衛の者たちに付いて来ずともよいと身振りで示し、ひとりで外に出た。
 ひとけのない夜の帳の下、ゆったりと静寂を味わった。七月の夜風が酔った頬に心地良い。
 だが風に吹かれながら、最初は軽く微笑んでいた王の口元が、次第に引き締まっていった。
 去年の春に開始した東方遠征は、これまでのところ順調に進んでいた。
 父王フィリッポス2世から引き継いだ3万7000人のマケドニア軍は精強を誇り、すでにグラニコス川の決戦でペルシア軍を一蹴していた。その余勢を駆って小アジア沿岸の各都市を恭順させ、東征一年目は堂々たる成果を挙げて終わったのである。
 それなのに今、一人で佇む王の横顔には、かすかな愁いがあった。
 ペルシア帝国の首都バビロンでは、ダレイオス3世がアレクサンドロスを迎え撃つべく大軍を集結させている、という報告を受けていた。
 おそらく、今年の冬までにダレイオスと雌雄を決することになるだろう。
 ダレイオスに負ける気はしなかった。
 しかし、絶対に勝てるという確信もなかった。
 もし勝てなければ、すべてが終わる。
 ダレイオスは負けても捲土重来を期すことができるが、アレクサンドロスにその余裕はない。
 兵たちは知らぬが、父の代からの戦争につぐ戦争で、マケドニアの財政は火の車だったからだ。
 ダレイオスを討ち、ペルシア帝国の莫大な財貨を奪うことが、この遠征を成功させるための必須条件だった。
 幸い、兵たちは自分を信頼してついてきてくれている。士気も申し分なく高い。
 だが明敏なアレクサンドロスは、彼らの心の奥に潜む一抹の不安を感じ取っていた。
 何か手を打たねばなるまい。それもなるべく早く……。
「こちらにおられましたか」背後から穏やかな声がした。
 アレクサンドロスはわずかに顔を後ろに向けた。「ネアルコスか」
「少し夜風が冷たくなってきました。そろそろ中に入られては?」
「そうだな」
 アレクサンドロスは踵を返し、建物に戻ろうとした。
 そのとき、すっと夜空が明るくなった。
 王は足を止め、天を振り仰いだ。
 宝石を散りばめたような夜空を、煌めく光の粒がふたつ、黄白色の長い尾を引きながら、東から西へ音もなく流れていく。
 アレクサンドロスは目を瞠って、光の軌跡を見つめた。
 光る球は丘陵の向こうに見えなくなった。ほどなく西の地平が一瞬明るくなり、ふたたび闇に戻った。
「今のを見たか、ネアルコス?」
「見ました」
 主従の声はどちらも弾んでいた。アレクサンドロスは子供の頃から好奇心が強く、常に変化を求めてきた。安閑と玉座を温める日々など考えるだけでうんざりする。そしてネアルコスもまた好奇心のかたまりのような男だった。だからこの二人はウマが合った。
「流れ星でしょうか?」
「いや、違うな。あれは――」
 あれは神から私への贈り物ではないか。
 ふいに、その考えがアレクサンドロスの心に閃いた。根拠はない。だが、神々はダレイオスではなく私に味方するはずだ。
「あの丘の向こうに落ちたな」
「そのようですね」
「ネアルコス」アレクサンドロスが少年のような口調で訊ねた。「あの光が何だったのか、知りたくはないか?」
「知りたいですね」ネアルコスも嬉しそうに頷く。
「探しに行くぞ。夜明けと共に出発する。お前もついてこい」
 探して来い、ではなく、探しに行くぞ、というのがアレクサンドロスらしいとネアルコスは微笑した。とはいえ臣下として同意はできない。まがりなりにもここは敵地なのだ。
「私にお任せください」とネアルコスは請け合った。「おおよその落下地点は分かっています。明日のうちに見つけられるでしょう」




 燦めく光の繭に包まれながら自由落下の速度で落ちてきたホームズは、凄まじい衝撃と共に地面に激突した――はずなのだが、なぜか靴底に伝わってきたのは、階段を下りた程度の軽い反力だった。
 地面に接触した瞬間、体を包んでいた光の繭が目を開けていられないほどに輝きを増し、ゆっくりと消散したので、ホームズには窺い知れぬ法則により、衝突エネルギーが光エネルギに置き換えられたのだと悟った。
 視界の端で、もうひとつの光の繭がゆっくりと消えていく。今回はモリアーティも、ホームズと同時に到着したようだ。
 光が消えてしまうと、周囲は灯りひとつない真の闇になった。
「さて、ここはどこだろう」
 ホームズはひとりごちた。光が消えてしまうまでのわずかなあいだに、素早く辺りの様子を観察してみたが、いかんせん時間が短すぎて手がかりは得られなかった。
 それでも数秒の光景から、ここが荒れ地であることが確認できた。
 英国の辺境だろうか、とホームズは考えかけ、すぐにその可能性を打ち消した。明らかに空気が違う。祖国とは異質の土地だ。
「ホームズ」闇の中からモリアーティが呼びかけてきた。「上を見てみろ」
 その言葉に夜空を振り仰いだホームズは目を瞠った。見たことがないほどの無数の星が視界いっぱいに広がっていたのだ。
 夜空の星々をよく宝石に喩えるが、大げさではなくその通りだった。
 ホームズはしばらく言葉もなく、満天に散りばめられた宝石を見つめた。
「倫敦では絶対に味わえぬ眺めだな」モリアーティの声にも賛嘆が含まれていた。
「たしかに」とホームズも頷くしかない。
「しかし、大地には灯りひとつ見えないな」モリアーティが言った。「ここで夜明けを待つより仕方あるまい」
「静かに朝を待つのも良いものさ。見たまえ教授」ホームズは目を細める。「北斗七星がある。僕たちがいる場所は北半球だよ」
 北斗七星が見つかれば、北極星を探すのは簡単だ。
「なるほど。あっちが北だ」
「北極星の位置が低いな」モリアーティも夜空を見上げている。「倫敦よりも南だぞ、ここは」
「おそらく……北緯三十五度くらいだろう」
 何も見えぬが、言葉を交わすことはできる。
「そのようだね」とホームズも頷く。「さて、長い夜をどう過ごしたものかな」
 ホームズとモリアーティは腰を下ろし、証明されていない数学の問題について、意見を戦わせた。百年以上も世界中の数学者が解明を試み、まだ誰も果たせずにいる難問だ。二人もさまざまな方向から糸口を見つけようと試みたが、とうとう歯が立たなかった。それでも実に愉快だった。お互いの数学の能力が拮抗しているからだろう。
 夢中で話し込んでいたホームズが我に返ると、東の空が青みを帯び始めていた。まもなく夜明けだ。
「今回はここまでにしておくか」モリアーティが名残惜しそうに言った。
 ホームズももう少し議論を続けたい気分だった。だが水も食料もない状況で、時間を無駄にはできなかった。
「あの丘に登ってみないか」とホームズは提案した。「丘の上から見渡せば、辺りの様子が分かるだろう」
「そうするか」とモリアーティも頷く。
 二人はキビキビとした足取りで斜面を上っていった。ホームズが予想した通り、この丘陵の頂上に立つと、はるか遠くまで見渡せた。
 だが、どちらを向いても、荒涼とした風景が広がっているばかりで、街や道路はもちろん、人の営みを想起させるものは何ひとつ見当たらなかった。
「どうやら僕たちは、あまり芳しくない状況にあるようだね」ホームズは飄々とした口調で言った。
「ずいぶん楽観的だな」モリアーティは呆れた顔をした。「私なら絶体絶命の危機と表現するがね」
「それは違うよ、教授」ホームズはきっぱりと言った。「ここが大都市の雑踏だろうが、周囲数百マイルに誰もいない荒野だろうが、どちらでも構わない」
 ホームズの言葉に、モリアーティはわずかに首をかしげる。しかしその意味を尋ねず、考え込んだ。
「僕たちは望んでここに来たわけではない」ホームズは言葉を続けた。「実際は逆だ。この荒野にタイムスリップするにあたって、僕と教授の意見は気持ち良いほどに無視されている」
「たしかに、な」とモリアーティも同意した。
「つまり、何者か――それが神だとは思わない。誰なのか、と訊かれても僕にも分からないが――の意志により、いま僕たちはこの場所にいる。そして東京で、太平洋上で、喜望峰でそうだったように、僕たちは誰かに遭遇するだろう」
「なるほど。その何者かは、我々をここで野垂れ死にさせる気はないということか」
「僕はそう推論したのだが、君の意見はどうだ?」
「分かった分かった」とモリアーティは苦笑した。「ここで待っていれば何かが起こる。私も同意するよ」
「とはいえ、大人しく何かが起こるのを待つのは退屈だな」ホームズは悪戯っぽく微笑んだ。「そうだ。せっかくだから、いま僕たちがいる場所を特定しようじゃないか」
「何だと?」
「僕たちが今いる緯度と経度を突き止めるんだ」ホームズは楽しげに言った。「まずは緯度からだ。北極星が朝日に照らされて消えてしまう前に始めよう」
 ホームズは北極星を見上げながら、滔々と語る。
「倫敦の緯度は北緯52度だ。倫敦では北極星は地平線から52度の位置にある。北極星の高度を求めれば、その場所の緯度が判明するわけだ」
「知っているさ。だが、どうやって高度を測るつもりだ?」
 ホームズは、ポケットからメモ帳を取り出してページを破り取った。
「これを使う」
「何も書かれていない紙をか」
 ホームズがにやりと笑った。
「まず、この用紙を対角線に沿って二つ折りにする。広げるとちょうど45度の位置に折り目が付く。紙をもう一度畳み、また二つに折る。さらにもう一度。よし、これでいいだろう。見たまえ、広げると11.25度刻みの線が入った簡易分度器のできあがりだ」
 放射状に折り目が付いたメモ用紙を、ホームズは顔の横に当てた。
「紙の下端を水平にして、北極星の角度を測ると……ふむ。ほぼ35度だ。教授、この場所は北緯35度にある」
「けっこう。だが問題は経度だ」モリアーティが顎をさすった。「経度を割り出すのは、緯度ほど簡単にはゆかぬぞ」
「分かっている。まずは時計が必要だが」ホームズは上着の内ポケットから、銀メッキの懐中時計を取り出した。「幸い、僕はこれを持っている」
「ふむ、上等な時計だ。だが、もう長く時間を合わせていないはずだ。正確な時刻が分からなければ、経度を割り出すことはできない」
「もちろん正確な時刻を知るのは無理だ。しかし、おおよその時刻なら導き出せる」
「よかろう。お手並み拝見といこう」
「では、その方法を説明しよう」
 ホームズは右手に時計を持ち、ふたたび滔々と語り始めた。
「僕が愛用するこの懐中時計は、さる高貴な身分の紳士から事件解決のお礼に贈られた品で、以来いちども故障することなく、常に正確に時を刻み続けている。
 そしてタイムスリップ中は、時計の秒針が止まり、タイムスリップが完了すると針が動き出すことは、すでに確認済みだ。
 この二つの事実から、タイムスリップ中は時間が止まっているか、もしくは時間が存在しないと僕は考えている」
「なるほど」
「さて、僕が最後に懐中時計の時刻を合わせたのは、僕たちがライヘンバッハの滝から落ちる六時間前だった。
 だから東京、大西洋の上空、南アフリカの喜望峰、そしてこの地に着いてからの滞在時間を合計し、そこに六時間を足せば、最後に時刻を合わせてから現在までの経過時間が判明する。
 そして経過時間が分かれば、この時計の時刻が、正しい時刻より何分何秒進んでいるかを知ることができるわけだ」
「各時代の滞在時間を覚えているのか?」
「もちろんだ」ホームズは平然と頷く。「まずはライヘンバッハで6時間、東京では2時間36分、大西洋上空には4時間2分、喜望峰では25時間18分、そしてこの場所に着いてから11時間51分が経ったところだ」
 ホームズは話しながら、リューズを回して時計の針を進めていく。
「さあ、これで僕の時計はロンドンの時刻になった。さすがに秒の単位までは確認していないが、そこは誤差の範囲内ということにしておくよ」
「ロンドンを通る子午線が経度0度だ」とモリアーティが続けた。「この時計が正午を指すよりも早く太陽が真上に来れば、ここはロンドンよりも東にあり、そうでなければ西にあると分かる。そして、そのときの正午との時間差から東経または西経が何度かを割り出し、北緯35度の線と交差させれば、ここがどこか判明するわけだ」
「正午までおよそ、二時間くらいかな」ホームズは言った。「また雑談に興じて時間をつぶそうじゃないか」
「……ま、他にやることもないしな」
 二人は周囲を見下ろす丘陵の上に並んで腰を下ろした。暖かく乾いた風が、二人のあいだを抜けていく。
「だけど僕たちが親しそうに話している光景を、レストレイド警部が見たら」ホームズは愉快な気分で微笑んだ。「きっと目を丸くするだろうね」
「ふん、奴がどう思おうが知ったことか」




 二時間後、ホームズとモリアーティは、ここが北緯35度かつ東経33度プラスマイナス1度付近にある場所だと結論した。
 ホームズは頭の中に世界地図を広げ、該当箇所にピンを打ち込んだ。
「これで僕たちがオスマン帝国の小アジア地方の、おそらくほぼ中央部にいることが分かったわけだ」
「残る問題は、今が西暦何年か、ということだが」
「そればかりは、僕の時計も教えてはくれないな」
 時計の針を元に戻すべきか、それともこのままにしておくか、話し合っていると、遙か彼方に土煙が立った。
 先に気づいたのはモリアーティだった。
「何かがこちらに来るぞ、ホームズ」
 砂煙がみるみる近づいてくる。
「誰かが馬を駆っている」とホームズも応じる。「それも複数名だ」
「我々をランチに招待してくれるのなら有り難いのだが」モリアーティがつまらなそうに言う。「どうも違う気がするな」
「どんな用件であれ、これまでの経験から考えて、彼らが今回のキーマンだろう。丘を下りて出迎えようじゃないか」
 二人は立ち上がって、斜面を下り始めた。
 が、半分も下らないうちに、馬で疾走してきた軍装姿の男たちが丘陵の麓に到達した。
 先頭の小柄な男が隊長で、後ろに付き従っているのが副将格だろう。そして十数名の兵士と平服の男が一人。彼らは小さな荷車を一台引き連れていた。
 隊長が馬を止め、こちらを見上げた。離れているので顔かたちまでは分からないが、若い男だ。
 先頭の男がひらりと馬から降りると、他の者も続いた。彼らの馬には鐙(あぶみ)がついていなかった。
 ホームズは喉の奥で低く唸った。
「さきほど君は、今が西暦何年かと訊いたね。正確には紀元前何年かと訊ねるべきだったよ」
「それなら答えが分かった。紀元前333年だ」
「あの鎧は古代マケドニアのものだ」ホームズは厳しい声を出した。「そしてマケドニア兵がこの地にいるということは……」
「まずいことになったな」さすがのモリアーティも表情を曇らせた。「我々はアレキサンダー大王の東征軍に見つかってしまったらしい」
 すでに兵士たちは二人に向かって歩き出している。言葉が通じない不審者だと分かれば、問答無用で斬り捨てられるかもしれない。
「一応訊くけど、教授、君は古代ギリシア語を話せるかい?」
「話せない」とモリアーティが首を振った。「お前も話せないのか、ホームズ?」
「残念ながら。古代ギリシア語ではなく、ラテン語を習得したことを、いま後悔しているところだ」
 モリアーティは、ホームズの軽口ににこりともしなかった。
「ホームズ、銃から弾を抜いておけ」モリアーティが丘陵を上ってくる男たちに視線を据えたまま言った。
「なぜだ?」
「もちろん彼らは銃というものを知らない。だが兵士という人種は、たとえ未知のものであっても武器には敏感だ。用心するに越したことはない」
「なるほど。君の勘を信じよう」
 抜き取った弾をポケットの中に滑り込ませてほどなく、二人は兵士たちに取り囲まれた。
 彼らは皆、全身から乾いた殺意を放っていた。人を殺すことに慣れた者の目だ。
 正面の兵士が左右に目配せすると、彼らは無駄のない動きで二人の背後を塞いだ。
 後ろに立った兵士が短い言葉を吐きながら、ホームズの背中を荒々しく小突く。
 何と言ったのかは分からないが、おそらく「歩け!」だろう。
 ホームズとモリアーティは短く視線を交わして歩き出した。二人を取り囲むように、兵士たちも付いてくる。
 丘の下では、隊長らしき男が馬にまたがったまま、近づいてくるホームズたちを見つめている。
 ホームズもさりげなく隊長を観察する。
 聡明そうな顔をした、まだ若い男だ。意外にも柔和な表情をしている。男はホームズたちを珍しそうに眺め、何かを問いかけてきた。
 こちらが何者か誰何しているのだろう。だがホームズもモリアーティも相手に通じる言葉を持ち合わせていない。
「もし貴方が私の名前を訊ねているのなら」一縷の望みを込めて、ラテン語で答えた。「私はシャーロック・ホームズ。彼はジェイムズ・モリアーティだ」
 隊長はホームズの言葉に耳を傾けていたが、小さく首を振ると、部下の一人に何かを命じた。
 初老の男が、隊長と異なる言語で話しかけてきた。通訳らしい。たぶんペルシア語だ。しかしホームズは古代ペルシア語を知らない。通じないと分かると、男はさらに別の言語に切り替えた。それも分からない。通訳は次々に違う言葉で話しかけてくる。そして少しずつ言葉がたどたどしくなっていった。ついに通訳は匙を投げたように首を振り、隊長に報告した。きっとこうだ。「駄目です。この連中には、私が知っているどの言葉も通じません」
 その報告を受けている隊長の表情が、ホームズには不思議だった。彼の顔に浮かんでいたのは、〈くそ、面倒くさい奴を捕まえちまったな。放免するか〉ではなく、〈言葉が通じないなら尋問もできぬ。さっさと殺して先を急ぐか〉でもなかった。まるで、〈うん、そうだろうな〉と言いたげな表情だったのである。
 隊長は通訳を下がらせると、今度は別の男に何かを命じた。
 命じられた男がゆっくりと近づいてくる。
 変わった男だった。艶やかな黒髪に黒い瞳。神官の服装をまとっている。よく晴れて相当に蒸し暑かったが、男は汗ひとつかいていなかった。しかも隊長を含めて他の兵士たちが顔も腕もよく日焼けしているのに、この男だけはまったく陽に焼けていないのだ。
 男は二人の前に立つと、微笑んで言った。
「ここがどこで、彼らが何者なのか、すでにお分かりのようですね」
「………!」
 ホームズもモリアーティも、しばらく口がきけなかった。男が滑らかな英語で話しかけてきたからだ。
「……あんたは、英語を話せるのか?」モリアーティがようやく訊ねた。
「ええ」男は何でもない風に答えた。
「しかし」とホームズが掠れ声で言った。「今が紀元前300年代なら、英語はまだこの世に存在しないはずだ」
「その通り」と男が頷く。「いま地球上で英語を話す者は、私たち三人だけです」
「すると」ホームズは声を落として訊いた。「あなたも我々と同じように、時代を超えて来たのか?」
「たしかに、私はこの時代の人間ではありません。というか、人間ではありません」
 男の微笑に親しさが加わった。
「お久しぶりです。喜望峰ではお世話になりました。クロワと申します」
 喜望峰?
「……まさか?」
「はい。あのときの鴉です」
 ふたたびホームズは絶句する。
「君はいったい――」
「今は説明している時間がありません」クロワが早口で遮った。「隊長のネアルコスがお二人に訊きたいことがあります。嘘をつかずに答えてください」
 この男がネアルコスか、とホームズは隊長を見返した。大王の信頼が篤い側近の一人で、今から八年後、大王の命令により、艦隊を率いてインド洋沿岸を探検することになる人物だ。
 クロワがネアルコスに向かって頷くと、馬の上からネアルコスが訊ねた。
「お前たちはどこから来た?」
 ネアルコスの言葉をクロワが英語で伝えた。答えるのがすこぶる難しい質問だ。
「遠い世界から」
 とホームズは言った。嘘ではない。しかし当然、相手は納得しない。
「具体的にはどこだ? 国の名は?」
 さて、何と説明しようか。
「この大地を西へ、どこまでも進んでいくと、やがて広大な海に行き着きます。その大海原の北方に浮かぶ小さな島が、私の生まれた国です」
「ブリテン島のことか?」
 ネアルコスが訊き返してくる。
「私はブリテン島に行ったことはないが、あの島はケルト人が治める土地だと聞いている。だが君たちはケルト人ではないようだ」
 ネアルコスの指摘は的確だった。当時のイングランドはケルト人が支配しており、アングロサクソン人の島になるのは遙か後のことなのだ。だが、それをどう説明すればいいのか。さすがのホームズもすぐには思いつけなかった。
 クロワは嘘をつくなと我々に警告した。だが本当のことを話しても、ネアルコスは信じないだろう。逆に怒らせてしまい、私とモリアーティを殺すかもしれない。
「そうか。答えたくないのか」
 腕組みをしてネアルコスが言った。
「では率直に訊ねよう。君たちはこの世界の者ではあるまい?」
 ネアルコスの質問を、ホームズは面白いと思った。
「なぜ、そう思うのですか?」
 ホームズが訊き返すと、ネアルコスは地面を指さし、「足跡だ」と答えた。
 そのひとことで、ホームズはネアルコスが何を言おうとしているのかを理解した。だがそ知らぬ顔で言った。「足跡ですか?」
「そう、足跡だ」ネアルコスは頷いた。「我が王アレクサンドロスは昨夜、煌めくふたつの流れ星が夜空を横切り、西の地平に落ちるのを見た。そして私にあの流れ星を持ち帰るよう命じられた」
 ネアルコスは愉快そうな口調で続けた。
「私は半日を費やし、ようやく流れ星の落下地点を探し当てた。すると、そこに不思議なものを見た。荒野の真っ只中に、ふいに二組の足跡が出現していたのだ。その足跡を辿っていくと君たちがいた。私はこの不可解な状況をこう結論した。あの流れ星は君たちだったのだ、と」
 言葉を切ると、ネアルコスは真顔に戻った。
「説明は以上だ。答えろ。あの流れ星は君たちか?」
 どうする? ホームズは決心をつけかねて、先程から黙りこくっているモリアーティの横顔を窺った。すると予想に反し、その顔には怯えも恐れもなく、むしろこの苦境を面白がっているような趣さえあった。それどころか目が合うと、口元に笑みを浮かべたのである。
 モリアーティ! 何と忌々しい男だ。だが、その不敵な横顔を見てホームズは気持ちが軽くなった。いいだろう、本当のことを話してやる。
「その通りです」とホームズは答えた。「昨夜、王がご覧になったのは、天から落ちてきた私とモリアーティでしょう」
「そうか」ネアルコスは驚かなかった。「ならば一緒に来てもらう。アレクサンドロスは流れ星を見つけて持ち帰れと私に命じられた。たとえ君たちが神の使いであろうとも、私は仕事を果たさねばならぬ」




 ネアルコスは、星屑を持ち帰るために用意していた荷馬車にホームズとモリアーティを乗せて出発した。
「ネアルコスは、ゴルディオンの街に向かっているのだろう、クロワ?」
 荷車に揺られながらホームズが訊ねた。乗り心地はどうみても快適とはほど遠かった。これだけの台詞を言うだけで舌を噛みそうになる。
「ええ、そうです。十マイル(約16km)ほどの距離ですから、夕刻までには到着できますよ」クロワがこともなげに答えた。
「何だと?」モリアーティが低く唸った。「十マイルもこの忌々しい荷車に私を乗せておくつもりか。尻が擦り切れて火を噴くぞ。何とかしろ。お前は神の僕(しもべ)なんだろう?」
「もしお望みならば」楽しげにクロワが提案する。「私の馬をお貸ししますよ、モリアーティさん。もちろん、鐙のない馬に騎乗できるなら、ですが」
「御託はいい。今すぐ鴉の姿に戻って、私に羽を毟らせろ。その羽をクッション代わりにする」
「申し訳ありませんが、お断りします」
 クロワは澄ましてそう言うと、馬の速度を上げて荷馬車から離れていった。
「くそ。いつかローストチキンにしてやるからな」
「ハハハ」ホームズは堪えきれず笑ってしまった。「教授、君が負け犬の遠吠えを口にするのを初めて聞いたよ」
「笑っている場合か、ホームズ」モリアーティが不機嫌に言う。「お前の尻も、そろそろ悲鳴を上げ出す頃合いのはずだ」
「む、たしかに……」ホームズも顔をしかめた。
 それからの数時間、二人は苦虫をかみつぶしたような顔で黙りこくっていた。


 二人の機嫌が直ったのは、街道の彼方にゴルディオンの街の全景が見えてきたときだった。
 乾いた大地が育んだ澄み渡る大気と、どこまでも突き抜けるような青空の美しさ。午後遅い時刻にもかかわらず、高い位置で輝く太陽と、その陽光が燦めかせているゴルディオンの町並みが広がっている。
「ああ、素晴らしい眺めだね」
「……まあな。悪くはない」
 それはホームズが、そしておそらく欧州から出たことがなかったモリアーティが、初めて目にする種類の景色だった。
 ちなみにホームズは、倫敦に帰還した後、この風景をときおり思い出すことになる。たとえば冬の倫敦の、陰鬱な曇り空の下を歩いているときに。
 そのとき一緒に歩いていたワトスンは、ホームズがここではない、どこか遠い場所を見つめているのに気づいたかもしれない。
 ワトスンは訊ねただろうか。「ホームズ、君はいま、何を考えていたんだい?」と。ホームズが何と答えたかは、ワトスン博士が書き残していないため分からない。
 それはさておき――。
 ゴルディオンは小アジア地方のほぼ中央に位置する街だ。ギリシアやエジプトなどの西方地域と、ペルシアなどの東方地域を結ぶ、交通、交易の拠点として繁栄していた。
 二人は、ゴルディオンの市街地に入る前に、もうひとつの絶景にも遭遇した。
 昨年の秋、アレクサンドロスは食糧が不足する冬期を乗り切るため、マケドニア軍を二つに分けた。自身は歩兵と軽装兵を率いて地中海沿岸の諸都市の攻略を続け、副将パルメニオンには騎兵とギリシア人部隊を預け、ゴルディオンで待つように命じたのだ。
 そして今、アレクサンドロスが指揮する本隊と、パルメニオンが率いていた第二軍が、ここゴルディオンで合流し、街の郊外にマケドニア全軍が勢揃いしていた。
 総数三万を越える兵士たちが、見渡す限りの夥しい数の天幕を張って宿営している光景は、ひとつの街が忽然と出現したかのような不思議な眺めだった。
「丘の上に城塞が見えるでしょう」
 いつの間にか荷馬車の横に並んでいたクロワが話しかけてきた。
「アレクサンドロスはあの城に滞在しています」


 ようやく一行はゴルディオンの街に到着した。
 街は活気に溢れていた。様々な肌の色、装いをした人たちが行き交い、様々な響きの言語が飛び交う雑踏を通り抜け、ネアルコスは二人の異邦人を連れて城門をくぐった。
 城内の前庭で、ホームズとモリアーティは、荷馬車から降りてゴルディオンの地を踏みしめた。尻の痛みのせいで感激が五割減ではあったが、二人は揃って安堵のため息をついた。
 ところが城館に入った途端、一人の男がネアルコスを呼び止めた。
「へファイスティオンです」クロワが小声で囁く。モリアーティが声に出さずに、ほう、という口をした。へファイスティオン。アレクサンドロスがもっとも寵愛したといわれる側近だ。すらりと背が高く、表情にも態度にも自信が満ちあふれている。
「やあ」とネアルコスが愛想良く頷き返した。
「ずいぶん遅かったな。王がお待ちだぞ。ネアルコスはまだ戻らぬか、と何度も訊ねられた」
「そうか。さっそく報告にあがろう。では」
 そう言って背を向けたネアルコスを、へファイスティオンが再び呼び止めた。「待て。その男たちは何者だ?」
 ネアルコスは一瞬、顔をしかめたが、振り返ったときには穏やかな微笑を浮かべていた。
「済まぬが、まず王に報告する。その後で君にも説明しよう」
 へファイスティオンが遠慮の無い視線をホームズとモリアーティに注いだ。
「こいつらを王に会わせるつもりか。ダレイオスが送り込んだ刺客かもしれぬぞ」咎める口調だった。
「アレクサンドロスのご命令だ」声を強めてネアルコスが言った。
「ならば私も同席する」
「お好きに」ネアルコスが小さくため息をついて歩き出す。
 通路を進むと、前方に警護の兵たちが入り口を固めているのが見えた。その向こう側がアレクサンドロスの居住区のようだった。
「ネアルコスが戻ったと王に伝えてくれ」ネアルコスが兵士の一人に言った。
「この者たちの体を改めろ」すかさずへファイスティオンが別の兵士に命じた。
 護衛兵のごつい手が二人の服を叩くように調べ、ホームズの上着のポケットから銃を掴み出した。
「これは何だ?」ヘファイスティオンが鋭く訊ねる。
 ホームズは内心の焦りを表情には出さず、「御守りです」と答えた。まったくの嘘ではない。あくまでも銃は護身用として所持している。「お返し願えますか」
「駄目だ。これが何か私には分からぬ。だが禍々しいものを感じる。アレクサンドロスとの謁見が終わるまで、私が預かっておく」
 へファイスティオンはそう言うと、有無を言わせぬ足取りで立ち去った。
 ……しまった。ホームズは心の中で舌打ちしたが、追いかけて取り返すわけにもいかなかった。
「王がお待ちです」戻ってきた兵がネアルコスに言った。「どうぞ、お通りください」
 ネアルコスは振り返ると、ホームズとモリアーティを短く見つめた。
「ひとつ忠告しておく。お前たちが神の遣いであろうがなかろうが、そんなことは関係ない。お前たちの神に対するようにアレクサンドロスに敬意を払え。命が惜しいなら、な」
 これまでのネアルコスとは別人のような厳しい口調だった。
「もちろん、そのつもりです」
 二人が答えると、
「そうか。ならばよい」
 ネアルコスは表情を和らげると二人に言った。「では、いこうか」




 ゴルディオン城塞の中央を貫く幅広の廊下を進んでいくと、前方に大きな扉が見えてきた。
 扉は大きく開け放たれ、その向こうから賑やかな話し声が聞こえて来る。
 入り口で先導の兵士が立ち止まり、気をつけの姿勢を取った。
「ネアルコス様をお連れしました」
 談笑していた男たちが会話を止めて、こちらを見た。
「待ちくたびれたぞ、ネアルコス」数段高い玉座から若い男が快活に呼びかけた。
 この男がアレクサンドロス三世か……。。
 ホームズは緊張で身が固くなるのを感じた。
 十九世紀の欧州には存在し得ない、文字通りの絶対君主である。彼はマケドニアの王だが、実質的にはギリシア世界の王であり、裁判官であり、ときとして神をも越える強大な権力を一身に集める人物だ。
 アテネもスパルタも、エジプトを統べる神官たちも、彼に逆らうことはできない。いや、できるが逆らえば滅ぼされる。そして敵対するペルシア帝国の王ダレイオスも、一年後には、その事実を認めざるを得なくなる。
 しかしホームズは、恐怖よりも、胸の高鳴りを覚えた。
 ああ、似ている! 
 ベーカー街の自宅で暇を持て余したとき、ホームズはよく歴史上の偉人たちの容姿を想像する遊びに興じたものだった。アレキサンダー大王もその一人で、彼の伝記を読み、その巨大な足跡に思いを馳せるとき、脳裏に浮かぶ顔があった。その顔はルーブル美術館で見た大王の胸像とも少し違うのだが、いま目の前にいる男の顔立ちは、ホームズが思い描いていた大王にそっくりだったのだ。
 思っていた通り、凜とした眼差しだ。瞳の奥に情熱の炎がある。表情は陽気で人懐こく、知的でさえあった。しかしその内側に、冷酷さと猜疑心と激情が潜んでいることをホームズは見て取った。そして普段は隠されている彼の性質が、些細なきっかけで火山の爆発のごとく表出するであろうことも。
「ただいま戻りました」ネアルコスが王の前に進み出た。「遅くなりましたが、流れ星の落下地点を見つけました」
「見つけたか!」アレクサンドロスが満足そうに言った。「よくやった」
「なんだ、今日は顔を見ないなと思っていたら、流れ星を探しに行ってたのか」
 いかにも育ちが良さそうな青年がおかしそうに笑った。そして王に話しかける。
「そういえば、ミエザの講義でアリストテレス先生が仰っていましたね。流れ星は天から降ってくる石だと。お前も覚えてるだろう、クレイトス」
「ああ、覚えている」と精悍な顔立ちの若者が応じた。「しかしフィロータス。俺は、たとえアリストテレス先生の言葉でも、空から石が降ってくるなんて信じられないけどな。で、どうだった、ネアルコス。流れ星はやはり石なのか?」
「まあ、待て。二人とも」アレクサンドロスが片手を上げて遮った。「まずはネアルコスの報告を聞きたい」
 なるほど、とホームズは心の中で頷いた。この男たちがフィロータスとクレイトスか。フィロータスは将軍パルメニオンの息子であり、クレイトスはアレクサンドロスの幼馴染みで、前年のグラニコスの会戦では、間一髪で王の命を救った。二人は王の側近中の側近で、三人のあいだに漂う空気は和やかだった。数年後、フィロータスもクレイトスも、アレクサンドロスの不興を買って殺されることになるのだが、今の三人には、そんな未来は想像もできないだろう。


「実は、まことに不思議なことですが……」ネアルコスは後ろに控えているホームズとモリアーティを示しながら言った。「昨夜、王がご覧になった流れ星は、どうやらこの二人のようなのです」
「何だと……」さすがのアレクサンドロスが、すぐには言葉が見つからない。
「おいおい。何を言ってるのか分からないぞ」フィロータスがからかうように言った。ヘファイスティオンのような意地悪さはなく、柔らかな口調だ。「それじゃ、まるで空から人が落ちてきたように聞こえるが」
「いや、そう言ってるんだ、フィーロータス」
 ネアルコスはホームズたちを見つけるまでの経緯を、アレクサンドロスに語った。
 王は口を挟まず、ネアルコスの言葉に耳を傾けた。
 フィロータスとクレイトスは、呆気にとられた顔をしている。
 ネアルコスの報告が終わると、アレクサンドロスは、ホームズとモリアーティを眺めながら考え込んだ。
「なるほど。たしかに不思議な男たちだ」
 アレクサンドロスが二人に向かって訊ねた。
「ネアルコスは、お前たちが天から降って来たと言ったが、それは本当か?」
「本当です」とホームズは認めた。
「おいおい、冗談も大概にしろよ」フィロータスが苦笑した。
「誰がそんな世迷い言を信じると思う?」クレイトスも呆れたように呟く。
 だがアレクサンドロスは真剣な表情だ。
「お前たちは、神の使いなのか?」王がふたたび問うた。
「いいえ、私たちは神の使徒ではありません」ホームズは答えた。
「ならば、どうして空から降ってきた?」
 口調は穏やかだが、嘘や誤魔化しは許さぬ、と王のまなざしが告げていた。
 ホームズの額に冷や汗が滲んだ。
「……教授、僕は今、シェヘラザードになった気分だよ」
 ホームズはモリアーティにだけ聞こえる音量で囁いた。
「状況はもっと悪いな」モリアーティが囁き返した。「アレクサンドロスは千夜一夜物語のペルシア王ほど甘くないだろう」
「そのようだ」とホームズも認めた。「ならば、本当のことを話すしかあるまい」
「きわめて危険な賭だな。だが……」モリアーティがうっすらと微笑んだ。「すでに我々の命は風前の灯だ。お前の判断に任せよう」
「ありがとう、教授」
 ホームズは顔を上げて、アレクサンドロスの視線を受け止めた。
「先程申し上げたように、私たちは神の使いではなく人間です。ブリテン島に生まれ、今もそこに住んでいます。ただし……信じていただけないかもしれませんが、私たちが生まれたのは、今から二千二百年後のブリテン島なのです」
「待て」
 アレクサンドロスが話を遮った。
「二千二百年後……と言ったのか?」間違いではないのか、という表情でクロワに訊ねる。
「たしかにそう言っています」クロワが答えた。
「それを信じろというのか」
「私は王のお訊ねに、正直に答えております」
 何と不遜な返答かとホームズは思う。私が王なら、この無礼な男たちの首を即座に刎ねるだろう。
 しかしマケドニアの王は、尋常の人間ではなかった。
「では訊くが、お前たちは何をしに来た?」
「分かりません」
「なぜ、分からぬ?」
「私たちがこの時代にたどり着いたのは、私たちの意志ではないからです」
「刻を司る神の意志か?」
「私も初めての経験ゆえ分かりませんが」ホームズは言葉を吟味しながら慎重に答えた。「仰せのように神の意志かもしれません。あるいは何者の意志も介在しない自然現象かもしれません」
「自然現象で時を越えたというのか。……いや。お前にも分からないのだったな」
 王は質問を変えた。
「ブリテン島では、どんな仕事をしていた?」
「私はブリテン島の首都で謎を解く仕事に就いておりました」
「待て。いま、謎を解く、と言ったか」
「申し上げました」
「面白い。謎を解くのが仕事か」アレクサンドロスは強い興味を抱いたようだった。「人間の本質は仕事のやり方に現れるという。お前がどういう人間かを知るには謎を解かせればよいが……残念ながら今の私には解けない謎がないのだ」
「それは素晴らしきこと。お喜び申し上げます」
「うむ……」一瞬、何かを言いかけて止め、アレクサンドロスは隣のモリアーティに視線を移した。「お前も謎を解く者か?」
「いいえ、閣下」モリアーティは剛胆にも告白した。「私は稀代の悪党でございます」
「なに?」アレクサンドロスは微かに目を瞠ったが、すぐに微笑んだ。「なるほど。たしかにどこから見てもお前は悪党の顔だ。違いない」
「お褒めに与り、光栄です」
「褒めてはおらぬ。謎を解く者と悪党が、連れ立って旅をしているのは、なぜだ?」アレクサンドロスが訊ねた。
 モリアーティが答えようとしたそのとき、
「お待ちください! その者どもの言葉を信じてはなりません」
 ふいに背後から朗々とした声が響いた。ホームズが振り返ると、開け放たれた扉の前に、へファイスティオンが立っていた。武将らしい軍服姿の男を従えている。
「へファイスティオンか」とアレクサンドロスが言った。「それにペルディッカスも。何事だ」
「その二人はメムノン(ペルシアの武将。アレクサンドロスの好敵手)が差し向けた刺客の疑いがあります。すぐに拘束して取り調べてください」
 そう告げると、へファイスティオンが傲然たる足取りで入ってきた。歩きながら右手を高々と掲げる。その手には先刻ホームズから取り上げた銃が握られていた。
「ちっ、あの男、やはり邪魔しに来たか」モリアーティがホームズの耳元で囁いた。「ここが倫敦なら、今すぐに奴の首をへし折ってやるのだが」
 へファイスティオンはネアルコスの隣に並ぶと、王に言った。
「これをご覧ください。この者たちが持っていたものです。私が見つけて取り上げました」
「それは何だ?」
「この者に訊ねると」へファイスティオンはホームズを視線で示しながら、「お守りだと答えました。ですが、このようなお守りは見たことがありません。そこでペルディッカスにこれを見せ、意見を聞いたのです」
 ……まずいな。ホームズは眉をひそめた。ペルディッカスといえば、アレクサンドロスが亡くなる際に自分の指輪を与え、後継者に指名したほどの卓抜な指揮官だ。
「私も、これを見たことは一度もありません」とペルディッカスが言った。「しかしへファイスティオンに見せられたとき、武器に違いないと直感しました」
「武器だと?」アレクサンドロスが玉座から身を乗り出した。「見せてくれ」
 へファイスティオンが恭しく、銃を王に手渡した。
 アレクサンドロスは銃を熱心に調べた。
 最初はバレル(銃筒)を持っていたが、やがてグリップを握り込み、ふむ、と納得した顔になった。トリガーに親指をかけようとして、考え直して人差し指をかけた。その経緯をホームズは興味深く観察した。銃が持つ圧倒的な合理性と機能性が、初めて触った人間を正しい持ち方に導いたのだ。
 グリップを握りトリガーに指をかけた銃を、アレクサンドロスはしばらく眺めていたが、ふいに閃いたようにホームズの胸に銃を向けると引き金を引いた。カチリ、と乾いた音がした。
 ホームズは思わず息を呑んだ。モリアーティの助言がなければ死んでいた。
 アレクサンドロスは厳しい表情になり、手に持った銃を見つめた。
「このお守りは、神に祈るためのものではないな」
 そして顔を上げると、きっぱりと告げた。
「お前たちを放免することはできぬ。死罪を与える」
 まさに鶴の一声だった。
 ホームズの視界の端で、ヘファイスティオンがニヤリと微笑んだ。
「お待ちください」ホームズは食い下がった。「なぜ私たちを殺すのか、納得のゆく理由をお聞かせいただけますか」
「私はお前たちが」と王が言った。「へファイスティオンが言うような、ペルシアの刺客だとは思っていないが、この先、ダレイオスがお前たちを召し抱える可能性があると考えている」
「我々にそのつもりはありません」
「お前たちになくても、ダレイオスがそれを望むかもしれぬ。そしてペルシアの王が望めば、お前たちがその要求を拒むことは不可能だ」
 これにはホームズも反論できなかった。古代世界で王から求められれば、それに従うか、拒んで死ぬか、その二択しかないからだ。
 だが、ここで死ぬわけにはいかない。
「偉大なる、アレクサンドロス」
 とホームズは呼びかけた。
「さきほど王は、仕事ぶりを見ればその人物が分かると仰いました。ですが仕事以外にも、人物の程度を量る指標があります」
「ほう」王が訊ねた。「どんな指標だ?」
「ゲームです」ホームズは答えた。「勝負をしていただけませんか。もし私たちが負ければ死罪を受け入れます。ですが私たちが勝ったときは、自由の身を約束してください」
「貴様、王に向かって何を言っている?」へファイスティオンが腰の剣に手をかけながら進み出た。
「少し待て」王はへファイスティオンを制して訊ねた。「どのようなゲームだ?」
「チャトラジです」とホームズは答えた。
「チャトラジ? 知らぬな」
「盤面と駒を使って架空の戦争を行う、インド発祥のゲームです」
「私に戦争を挑むつもりか?」少し面白がり、少し呆れたようにアレクサンドロスが言った。
「命を賭けた勝負には、相応しいと存じます」
「面白い。よかろう」即答だった。
「ありがとうございます」
 ホームズは胸に右手を添えて恭しく頭を下げた。この時代にはない挨拶だが、敬意は伝わるだろう。
「あんたに頼みがある」
 交渉が成立したのを見て、すかさずモリアーティが小声でクロワに話しかけた。
「チャトラジを用意してほしい、でしょう?」とクロワが応じた。
「察しがいいな。未来へ行って1セット持ち帰ってくれ」
「簡単に言わないでもらえますか。でも、引き受けざるを得ませんね」クロワは顎に手を当てた。「往復の手間を入れて、二時間あれば大丈夫でしょう」
「往復で二時間?」モリアーティは聞き違いかと思った。「違う時代に行くとき、私とホームズは数時間も落ち続けているぞ」
「それは貴方たちが人間だからですよ。私は神の使いです。移動速度が違います」
「なるほど。ま、よろしく頼む」モリアーティは、ホームズに囁いた。「二時間後ならオーケイだ」
 ホームズは頷くと、準備のために数時間の猶予を願い出た。
「分かった。晩餐の後、私の時間を与える」アレクサンドロスが言った。
 ホームズとモリアーティは安堵の息をついたが、王は甘くはなかった。
「ネアルコス」とアレクサンドロスが命じた。「それまで、この二人を地下牢に閉じ込めておけ」


(後編に続く)


posted by 沢村浩輔 at 16:43| Web小説

『永遠のシャーロック・ホームズ』について


 最初にはっきり言っておきたい。
 この連作短編は色々な意味で常識を欠いている。
 まず主人公がシャーロック・ホームズであることだ。出来映えはともかく、仮にもホームズが登場するからには、読む人は真っ当なミステリだろうと期待する。私が読者でもそう思う。
 しかしお読みいただければ明らかなように、これは狭義のミステリ小説ではない。
 なぜ、ミステリでない小説にシャーロック・ホームズを登場させたのか?
 読者の期待を裏切る行為であり、ルール違反ではないのか?
 そうかもしれない。
 だが、もちろん私なりの理由がある。
 私はこの連作に『永遠のシャーロック・ホームズ』というタイトルを付けた。
 しかし、本当は『THE ADVENTURES OF SHERLOCK HOLMES』にしたかった。
 『シャーロック・ホームズの冒険』――いうまでもなく、コナン・ドイル氏のホームズ第一短編集のタイトルだ。
 いい歳になった今でも、このタイトルを口にすると、私はワクワクする。そしておそらく、そのワクワクの源は〈ADVENTURES〉という単語にある。
 そう、私はシャーロック・ホームズの〈事件簿〉ではなく、〈冒険〉を書きたかったのだ。
 では、冒険とは何だろうか。
 ひとことでは言い表せない豊かさと広がりを含む語句だが、これを書くにあたり、私は〈冒険=旅〉と考えてみた。
 つまり、旅するホームズの物語である。
 もちろん冒険である以上、どんな旅でも良いわけではない。
 先行きが見通せず、無事に帰還できるかどうかも定かでない旅が望ましい。
 予定調和の冒険などありえないからだ。
 逆に、その条件さえ満たせば、どんな旅も冒険となる資格を有する。
 それがタイムトラベルであれば、もはや冒険と同義だと断言して構わないだろう。

 そして二つ目の非常識は、ワトスンが存在しないことだ。
 ホームズとモリアーティが組み合ったままライヘンバッハの滝へ落ちた瞬間、この物語がスタートするのだから、ワトスン氏がホームズの旅に同行するのは無理である。
 当然のなりゆきとして、ホームズの同行者はモリアーティ教授ただ一人だ。
 ワトスン役がいない。ミステリ書きとしては、すこぶる困った状況である。
 二人が行く先々でワトスン役の人物に出会う、という王道の展開も考えたが、それでは〈冒険〉ではなく、〈事件簿〉になってしまう。
 できれば、それは避けたい。
 とはいえ、いい解決策も浮かばない。
「ええい、面倒くさい。もう、なしでいいや」という結論に至るのに時間はかからなかった。
 一応弁明しておくと、私もミステリ書きとしての責任感から、モリアーティ教授にワトスン役就任を打診してみた。そして一蹴された。
「なぜ、この私がホームズの記述者にならねばならんのだ? 頼むならホームズに頼め。あいつが私の冒険を記録すればいい。そもそも私はあの男が主人公というだけでも業腹だ。あいつのために指一本動かす気はないとはっきり言っておく」
 ま、そう言うだろうと思ってました。駄目元で訊いてみただけです。


 というわけで、私が夢想したシャーロック・ホームズ冒険譚の第四弾、『探偵と悪党と王』です。ご興味がある方は、どうぞ。

posted by 沢村浩輔 at 16:37| Web小説

2024年12月20日

行舟文化さんからいただきました


ありがとうございます。
楽しみに読ませていただきます。

posted by 沢村浩輔 at 16:34| お知らせ